日めくりプロ野球 10月

【10月7日】1970年(昭45) ロッテ優勝!永田“ラッパ”、自前の球場でイの一番に舞う

[ 2008年10月5日 06:00 ]

しゃべりだしたら止まらない、未発表の重要事項も記者につい本当のことを言ってしまった“ラッパ”こと永田雅一オーナー。野球では大のバント嫌い。バントをめぐって大毎をリーグ優勝させた西本幸雄監督も解任させられた
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 【ロッテ5-4西鉄】一番最初の“ターゲット”は、ロッテ・濃人渉(のうにん・わたる)監督ではなかった。真っ先に胴上げされたのは、優勝へのプレッシャーで体重が4キロ減り、51キロになった明治39年生まれの小柄なスーツ姿の男だった。
 「みんなありがとう、ありがとう。ワシは幸せだなあ」。感謝の言葉も2万6000人の観衆の歓喜の雄叫びにかき消されて聞こえなかった。しかし、男が感激に全身を震わせているのは誰の目にもはっきり分かった。メガネの奥から熱いものがとめどなく滴り落ちる。そのふた筋の涙の道に無数に舞う紙吹雪が張り付いた。選手による胴上げが終わるや否や、今度はグラウンドになだれこんだオリオンズファンに持ち上げられ、男は再度宙に舞った。男の名前は永田雅一。10年ぶりにパ・リーグを制覇した、ロッテオリオンズのオーナだった。
 「10年ぶりかあ。長かったなあ。やっと夢がかなった。下町のみなさんとこうして喜びを分かち合える。続けてきて良かった。本当に良かった」。“金も出すが口はそれ以上に出す”という、押しの強い“ラッパ”の異名を持つ名物オーナーは、62年(昭37)に30億円を投じて東京・南千住

 「どうも負けムードだな。うまくいかんな」。多忙を極める永田オーナーが久しぶりにゆっくり観戦できることになった試合は、5回まで0-3と劣勢。西鉄のルーキー・三輪悟投手の前に2安打に封じ込められていた。そんなオーナーのモヤモヤを吹き飛ばしたのが、6回のビッグイニング。中日を解雇され、この年途中からロッテ入りした江藤慎一一塁手が左中間へ本塁打を放って口火を切ると、ジョージ・アルトマン左翼手が走者1人を置いて同点の28号2点弾。山崎裕之二塁手の中越え適時二塁打と醍醐猛夫捕手の犠飛で計5点を入れた。逆転したロッテは、20勝をマークしたエース木樽正明投手を7回から投入。これで優勝だ。ロッテベンチもスタンドのファンも、そして永田オーナーも確信した。
 1分が10分にも感じられるほど待ち遠しい歓喜の瞬間を思い浮かべながら、プロ野球をこよなく愛した永田は歩いてきた道のりを思い返していた。人づてで何とか映画会社に職を得た永田が、映画会社「大映」の社長にまで登りつめ、プロ野球に参入したのは1リーグ時代最後の1949年(昭24)。戦後誕生した金星を1000万円で買収し、大映スターズを率いたのが始まりだった。映画界でも球界でも“風雲児”と呼ばれた永田は、パ・リーグの初代総裁に。紆余曲折を経て3年間だけ存在した高橋ユニオンズと毎日オリオンズと相次いで合併し、大毎オリオンズになったのは、巨人に長嶋茂雄三塁手が入団した58年(昭33)だった。
 60年に“ミサイル打線”を擁しリーグ優勝も、圧倒的に有利とされた大洋との日本シリーズで0勝4敗と惨敗。以後、毎日新聞が球団から手を引き、東京スタジアムも完成したことから東京オリオンズに改名。69年(昭44)には菓子メーカーのロッテから毎年7000万円の融資などを得る代わりに、いわゆる“ネーミングライツ”で球団名はロッテオリオンズとなった。赤字続きの球団経営も優勝すれば、その悩みは吹き飛ぶ思いだった。
 念願の10年ぶりのパ・リーグ優勝、自らかが建てた東京スタジアムで胴上げまでされた。日本一は逃したものの、皇太子の浩宮さままで観戦に来られ、悲願だった巨人との日本シリーズを戦ったことで、永田は一定の達成感を感じていた。
 永田にとって10年ぶりの優勝は、ロウソクが消える寸前に一番明るくなり、パッと消えてしまうのと同じだったのかもしれない。東京スタジアムで見せたうれし泣きからわずか3カ月余りの71年1月25日、同じ場所で永田は無念の涙にむせんだ。
 「大映を救うためには…球団から手を引かなければならなくなった…。断腸の思いではあるが…私は映画に生き…映画に死ぬ男であります」。言葉が途切れ途切れになりながら、球団を手放すことを自主トレ中の選手に伝えた。東京スタジアムを完成させた頃から斜陽産業になった映画。本業の大映での負債は土地や本社ビルを売却しても40億円近くあった。もう野球どころではとっくになくなっていた。
 「私はしばらく旅に出るが、私の魂はオリオンズとともにいき続ける。私は必ず球界に帰ってくる」と宣言した永田だったが、71年11月に大映は映画制作、配給から撤退。72年には永田が社長を務めた東京スタジアムも経営が行き詰まり解体が決定した。
 その間にロッテがそのまま引き継いだオリオンズは本拠地を持たず、仙台を準フランチャイズにしながらスター性十分の金田正一監督によって人気も上昇。74年にパ・リーグの覇者としては10年ぶりに日本一となった。
 ロッテ-中日の日本シリーズ第3戦(後楽園)、スタンドには永田の姿があった。成長したわが子を遠くから見つめながら、何度も白いハンカチを目元にあてていたという。
 野球界に復帰できぬまま、85年10月24日、79歳で死去。88年にその功績を称えられ鳴らなくなった“ラッパ”は野球殿堂入りをした。1950年(昭25)、2リーグ分裂の年に優勝して以来、オリオンズ並びにマリーンズのパ・リーグ優勝は5回を数え、日本一は3回ある。皮肉なことに日本一を逃した2回のリーグ優勝は、日本一に一番なりたかった永田がオーナー職にあった時であった。

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