日めくりプロ野球 10月

【10月3日】1987年(昭62) 3度目の最多勝が…孤高のエース・遠藤、アキレス腱断裂

[ 2008年10月1日 06:00 ]

アキレス腱を断裂しながら三塁ベースに向かう大洋・遠藤一彦投手。このケガさえなければ、200勝も夢ではなかった
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 【巨人4-3大洋】野球にでも人生にでも「もし…」というのは、言っても仕方のないことだが、そう言いたくなる場面には何度も出くわす。この日、巨人・篠塚利夫二塁手が何でもないゴロをエラーしなければ、そして出塁した選手の足が遅ければ“事件”は起きなかったかもしれない。
 4年ぶりのリーグ優勝が目の前の巨人に、こちらも3年ぶりの最多勝が見えてきた大洋・遠藤一彦投手が立ちはだかった。後楽園での25回戦。ストレートが走り、ウイニングショットのフォークボールも完璧だった。4回まで1安打無四球。ベンチの巨人・王貞治監督の表情が次第に険しくなっていった。

 対照的に初回に1点を失った巨人・西本聖投手の出来は良くなかった。5回表大洋は、先頭の遠藤が篠塚の失策で出塁すると、ここまで2安打の1番・高木豊二塁手が左翼線に安打を放った。遠藤は足が速い。直線の短距離を走らせたら、スーパーカートリオの高木や屋鋪要外野手にも引けをとらない。吉村禎章左翼手が打球を処理している間に、遠藤は一気に三塁を狙った。
 二塁を回った。その時「ベースを踏んだ後になんか異状を感じ、その後に後ろから蹴飛ばされたような感じがして、右足がガクガクしだした」(遠藤)。三塁ベースを目の前にして左足でケンケンするような格好で飛び込み、セーフにはなったが、苦悶の表情を浮かべたまま立ち上がれなかった。
 急いで担架で運び出された遠藤はトレーナーの応急処置のあと、主治医のいる横浜の病院へ車で運ばれた。診断結果は「右足アキレス腱不全断裂で全治3カ月」。最多勝どころか、来季の開幕すら危ない大けがだった。
 エースのリタイアはチームに大きなダメージを与えた。遠藤がかじりついて離さなかった三塁ベースに入った代走池之上格内野手と二塁走者の高木が2番・山下大輔三塁手の二塁打で生還し3-0とリードを広げたが、緊急登板の欠端光則投手らがつかまり逆転を許した。巨人はこれでマジック4「遠藤には気の毒だが、あれで流れが変わったね。きょうの遠藤は正直、打てないと思っていた。3-0になっても遠藤以上の投手が出てこないならなんとかなると…」。王監督も相手の不幸に笑顔ではなかったが、会心の逆転勝ちに言葉は弾んでいた。
 遠藤に危険信号はシーズン中から点滅していた。5月に一度登録を抹消。原因はアキレス腱痛だった。手術も検討されたが、チームは“優勝請負人”として招へいした古葉竹識監督の1年目。前任者の近藤貞雄監督の大胆な野球から緻密なチームプレーを要求する新指揮官の野球に戸惑った大洋は開幕から低迷。遠藤頼みの展開が続き、とても戦列を離れるわけにはいかなかった。
 そのうち気温が上がるにつれて痛みも和らぎ、夏から秋にかけ10勝を挙げ、83、84年に次ぐ3度目の最多勝を巨人・桑田真澄投手、中日・小松辰夫投手と争うまでになっていた。アキレス腱のことも気にならなくなっていた矢先のアクシデントだった。
 翌年、遠藤は復帰したものの、かつての遠藤ではなかった。「分かっていても打たれなきゃいいだろ」とフォークを投げていたころの強気の姿勢は見られず、足をかばって恐々投げていた。けがの翌年は5勝12敗、再手術で臨んだ89年も2勝8敗。89年8月5日の巨人15回戦で大洋は3-11と大敗したが、敗戦処理のマウンドに上がったのは遠藤。かつて巨人打線を力でねじ伏せ、ホエールズファンに“大遠藤様”とまでいわれた男が、目標もなく投げている姿をファンの誰もが見たくはなかった。
 その遠藤が90年、最後の意地をみせた。古葉監督からかつて大洋の2軍監督を務めた“鬼軍曹”須藤豊に指揮官が代わり、与えられた役目がストッパーだった。「これが最後」の覚悟でシーズンイン。再び働き場所を得た背番号24は6勝21セーブをマーク。大洋の7年ぶり3位に大きく貢献し、カムバック賞を受賞した。
 大洋が川崎から横浜に移転した78年に入団し、大洋が横浜ベイスターズになることが決まった92年に引退。15年間、横浜大洋一筋、ベイスターズの選手としてユニホームを着ることなく「ホエールズの遠藤」としてユニホームを脱いだ。通算134勝。同い年でライバルと自認していた巨人・江川卓投手の135勝に1勝及ばなかった。

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