日めくりプロ野球 10月

【10月1日】1992年(平4) さらば平和台…フィナーレを飾ったのはルーキーと記録男

[ 2008年9月29日 06:00 ]

在りし日の平和台球場。3万4000人収容、両翼92メートル、中堅は122メートル。ヤジのよく通る球場としても有名だった
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【ダイエー1-0近鉄】ダイエーのルーキー・若田部健一投手の98球目、渾身のストレートに手を出した、近鉄の3番ラルフ・ブライアント外野手の二塁へのフライが湯上谷宏二塁手のグラブに収まらないうちに、スタンドからは何色ものテープが投げ込まれた。その光景をじっとネット裏からながめる50代半ばすぎの男。胸が熱くなった。
 午後8時24分、この瞬間に福岡・平和台球場でのプロ野球公式戦はすべて終了。惜しまれながら43年の使命を終えた。左翼外野スタンドの下から、飛鳥~平安時代に外交使節を迎えた迎賓館「鴻濾館(こうろかん)」の遺構が発見され、福岡ドーム完成に伴い歴史公園として整備されることになったためだった。

  まるで優勝したかのような大歓声と紙テープの数に驚きながら、ネット裏の男は口を開いた。「やっぱり、寂しい。でも、こうやって最後の場面に居合わせることができるなんて幸せだよ」。かつてこの平和台を舞台に“野武士軍団”と呼ばれ、恐れられた西鉄ライオンズの主力打者・豊田泰光遊撃手は、そう静かに語った。青春のすべてをぶつけたと言っても過言ではない平和台。センターバックスクリーン後方から球場のフィナーレを飾る打ち上げ花火を見つめながら、ここで繰り広げられた数々の名勝負に思いをはせていた。
 通算1904試合目となった平和台の最後のプロ野球はダイエー・若田部健一投手、近鉄・野茂英雄投手の素晴らしい投手戦で8回表まで0-0。別れを惜しむかのように延長戦の様相も呈してきていたが、一撃で決着がついた。8回裏、ダイエーの7番・広永益隆左翼手が右翼中段へ飛び込む6号ソロ本塁打を放ち、これが決勝点となった。
 プロ野球通算6万号、パ・リーグ通算3万号とメモリアル・アーチを記録してきた“本塁打記録男”が、平和台での公式戦3356本目の最後の本塁打まで打ち、その名がまた球史に刻まれることに。「平和台が打たせてくれたホームラン。プロ6万号、パ・リーグ3万号も打ってるけど、あれなんか比べものにならないくらいうれしい」と広永はしばらく興奮状態だった。
 若田部も燃えていた。プロとしてスタートを切った平和台の締めくくりを任せられたことを意気に感じ「相手も野茂さんだったし、絶対負けられない、先に点をやれない気持ちで最後まで投げた」。2度目の完封勝利は投球数100球を切り、自己最少被安打の3、そして目標の2ケタ勝利となった。
 そして、平和台の終演とともに23年の選手生活の幕を閉じるスラッガーもいた。通算2566安打(歴代通算4位)、567本塁打(同3位)のダイエー・門田博光外野手は3番・DHで先発出場。初回、野茂の150キロのストレートを3球すべて空振りし、通算1520三振でバットを置いた。「最後に野茂と勝負ができて良かった。もう悔いはありません」。ホークスが大阪から福岡へ移った際には、関西に残りオリックスへと移った門田だったが“死に場所”はやはりホークスを選んだ。「主役は平和台だから」と目立たったセレモニーを嫌い、静かにユニホームを脱いだ。
 終戦直後の1948年(昭23)、国体のサッカー場として建設されたが、戦後の野球人気の高まりから福岡市民の「是非野球場に」という要望に応え、2年後に球場になった平和台。スタンドは土盛りで木製の長いすが並べられただけの球場を当初西鉄はフランチャイズとして使用していなかった。「あんな球場でプロが野球できるか」とまで言っていたが、それを整備し、スタンドを増設したのは西鉄が3年連続日本一になった黄金時代の昭和30年代前半。豊田や稲尾和久投手、中西太三塁手らの野武士軍団見たさに集まってくる観客の入場料が資金源となった。
 西鉄の凋落で観客が激減し、黒い霧事件後の太平洋クラブ、クラウン時代には厳しいヤジがスタンドから飛び、ライオンズの選手は本気で「ホームで試合をしたくない」と言っていた。やがてライオンズが所沢に去り、年間数十試合の公式戦が行われる程度になった平和台に再びプロ野球の灯がともったのは89年。奇しくもかつての好敵手南海ホークスが生まれ変わて“飛来”したものだった。
 酸いも甘いもすべて経験した波乱万丈の43年間。解体後もスタンドの一部などが残されていたが、今は往時をしのぶものはほとんどなくなっている。

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