日めくりプロ野球 9月

【9月28日】1977年(昭52) 一体何が?野村克也監督兼任捕手、電話で解任通告

[ 2009年9月1日 06:00 ]

試合終了後、握手を交わす野村(右)と鶴岡監督。深い師弟関係に見えたが、野村は常に鶴岡の叱られ役で可愛がられた思い出は少ないという
Photo By スポニチ

 選手として24年、兼任監督として8年。南海ホークス一筋に歩んできた男は、午後8時に自宅へかかってきた球団代表からの電話一本で監督の座を解任された。
 「自発的な退団の申し入れがく、電話でこういうことを通告しなければならなかったのは非常に残念だ。監督解任の通告はあす文書で正式に伝える。この通達はオーナも了承している」と南海・森本球団代表。残り2試合とはいえ、シーズン途中で野村克也監督は監督の座を追われた。

 70年(昭45)から8年の在任中、リーグ制覇はわずか1回。成績不振という見方もあるにはあったが、それは二の次。野村解任の背景は、長年にわたる“公私混同”と伝えられた。
 68年ごろから家庭内にすきま風が吹いていた野村は70年ごろ、東京である女性と知り合い深い仲に。東京遠征の際、野村はチームの宿舎に泊まらず女性のもとへ行くこともしばしばあったという。コーチ陣は監督と試合での用兵や作戦について満足な話もできず、途方に暮れるばかり。大阪に戻れば時には女性が付いてくることも。噂話の域を出ないが、コーチ会議に口を挟み、選手起用にも意見を述べたという報道も当時はされた。
 そんな状態が数年続き、野村の行為に球団内でも反発する選手、コーチも現れた。球団上層部はこれを重要視し、8月に野村に対してじかに注意した。しかし、状況は変わらず、就任以来野村をかわいがっていた川勝オーナーもさすがにかばいきれなくなった。
 南海の動きは早かった。監督解任の翌日、野村と並ぶホークスの生え抜きでいながら、そりが合わずトレード候補とされていた広瀬叔功外野手の新監督就任を発表。同時に野村色の一掃を図り、参謀のドン・ブレーザーヘッドコーチも辞任という形の退団に追い込んだ。
 野村は一切口を閉じ、沈黙を守ってきたが、解任から1週間後の10月5日に大阪市内のホテルで会見を開いた。野村は45分にわたって私見を述べた。
 「私は鶴岡元老に吹き飛ばされた。スポーツの世界に政治があるとは思わなかった。鶴岡政権の圧力の前に屈したのだ」
 「(公私混同は)身に覚えがない。彼女は野球をしらない。コーチ会議に出たり、采配に口を出すわけがない。第一、私は監督としてそれほど無能ではない。コーチが数人造反し、4年前に選手も造反したことが(解任の)背後にある。彼女のことを標的にして、解任の理由にしたんだ」
 「解任の決め手は葉上さん(葉上照澄・比叡山延暦寺大僧正、野村監督の親代わり)だろう。葉上さんに“彼女と別れなければ野球ができなくなる”と言われた。彼女も葉上さんに会って“話を聞いて欲しい”と頼んだが、“帰れ”の一点張り。それで彼女が堪忍袋の緒を切って“それが仏の道を説く人の…”と言ったのが印象を悪くしたのだろう。それでオーナーに悪く吹き込んだのだろう」。
 “鶴岡元老”とは、南海黄金時代を築き上げた鶴岡一人元監督。京都・峰山高からテスト生で採用、ブルペン捕手からその打撃を買って1軍に登用した、野村にとって恩師であるはずの鶴岡だったが、実際この頃は犬猿の仲。きっかけは「お前に監督ができるのか」という就任直後の鶴岡の言葉だった。口の悪い鶴岡ならではの言い回しだったが、野村はそれにカチンときたという。
 実際、鶴岡の影響があったのかどうか…鶴岡元監督や川勝オーナーら関係者の多くが鬼籍に入られ、真相はどこにあるのか。今でもはっきりしないことは多いが、野村の退団を聞いた広島が獲得の意思を非公式に南海へ打診したところ、広島出身の鶴岡とその関係者が野村解任にかかわっているとの噂を耳にすると獲得の話は立ち消えになったという。
 大阪球場跡に建てられた大型商業施設「なんばパークス」。南海栄光の歴史の数々の品や系譜が記されているが、そこに戦後初の三冠王にしてリーグ優勝、日本一2回に貢献した野村の名前はない。あれから30年以上。すでに南海ホークスはなく、チームは福岡に根付いた。野村解任騒動も球史のほんの一部になってしまった。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る