日めくりプロ野球 9月

【9月15日】1984年(昭59) 打者転向も考えた東尾修 2人目の負け越し名球会入り

[ 2009年9月1日 06:00 ]

“トンビ”の愛称でナインから親しまれた東尾。251勝の一方で通算165与死球はいまだに日本記録。厳しいコースを攻めた証である
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 【西武7-0南海】力のない飛球を西武・金森栄治左翼手がグラブに収めると、雨と汗で水滴がしたたり落ちる37歳はようやく笑みを浮かべた。敬老の日のデーゲーム、地元所沢で東尾修投手が南海を2安打完封、通算200勝を達成した。
 「特別速い球を投げられるわけでもないオレが200勝。相手に向かっていく闘争心だけでここまで来れた」という東尾。「毎日1球1球いっしょうけんめいになげてきて、しあいの時はもっともっといっしょうけんめいになげて、負けたらこんどこそかつぞと強い気もちでやったから200しょうができたと思います」(原文のまま)。当時9歳の一人娘、現プロゴルファーの東尾理子からもらった手紙に闘争心むき出しの右腕は、初めて優しい父親の顔になり、愛娘からの祝福のキスに表情を崩した。
 実は東尾、西武球場での南海戦は4連敗中だった。最後に勝ったのが2失点完投勝利の82年4月18日。その間、南海の本拠地大阪球場では3完封を含む5勝1敗と“カモ”にしていただけに、2シーズン本拠地で勝てないのが不思議だったが、2度失敗した200勝挑戦だっただけに、この日は初回からシュートでカウントを稼ぎ、スライダーを決め球にプロ16年目のあらゆる投球術を駆使して立ち向かった。
 6回まで2四球。完璧な投球だった。ベンチもスタンドもノーヒットノーランであることに気がつき出した7回2死、4番クリス・ナイマン一塁手に初安打を許してしまったが、ホークス打線を最後まで翻弄しての103球完封勝利だった。
 和歌山・箕島高出身。「投げるより打つほうに自信があった。法政大学に進んで打者に転向するつもりだった」人生設計が、68年(昭43)に西鉄がドラフト1位で指名で大きく変わった。元々プロ志望。声がかかったらその気はあった。進学から一転、周囲の反対を押し切ってプロ入りした。
 プロ1年目は1軍で8試合に登板し0勝2敗。やはりバットで勝負したいと申し出たが、球界を揺るがした黒い霧事件で西鉄は主力投手が追放された上に、稲尾和久投手が監督となり引退。東尾の打者転向は許されない状況だった。
 苦しい投手陣の中で東尾はマウンドに上がり続けるしかなかった。2年目に11勝したものの18敗。翌71年も8勝16敗、72年は18勝しながら25敗と2年連続リーグ最多敗戦投手に。75年は23勝15敗で最多勝のタイトルを獲りながらも、これまた最多敗戦投手でもあった。現役引退までの20年間で5回もリーグ最多敗戦を数えたのである。
 「負けて覚える野球かな」と東尾はつぶやいた。味方のエラーで負けた時に、ベンチでグラブを叩きつけチームメイトに殴られたこともあった。消化試合に気を抜いた投球して、稲尾監督に鉄拳を食らったこともあった。弱いチームでやられてもやられても投げているうちに、インコースを突く“ケンカ投法”で勝負するスタイルを確立。太平洋、クラウンとライオンズの暗黒時代といわれる6年間に計91勝をマーク、西武になってからそれに経験が加わり、旨みのある投球へと進化した結果の200勝だった。
 200勝達成時点で214敗と黒星が先行していた東尾は、名球会唯一の“負け越し会員”阪急・梶本隆夫投手(254勝255敗)に次いで2人目の入会だったが、最終的に251勝247敗で勝ち越しに成功。常勝軍団となった80年代の西武でなかったら、梶本と同じ“運命”だったに違いない。若い頃は野手に足を引っ張られることもあったが、ベテランになってからは自分より若い選手に逆に助けられて、4つの勝ち越しをつかんだ。

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