日めくりプロ野球 9月

【9月6日】1975年(昭50) “山賊”の親分江藤慎一 注目されなかった2000本安打

[ 2009年9月1日 06:00 ]

江藤に2000本安打を打たれた柳田は、江藤の監督就任に伴い、近鉄に土井との交換でトレードをされた選手。因縁を感じる組み合わせである
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 【太平洋1-1近鉄】太平洋・江藤慎一監督兼選手(38)は6日、藤井寺球場で行われた対近鉄7回戦の9回表、柳田投手から右翼線二塁打を放ち、プロ入り通算2000本安打を記録した。プロ野球9人目。初安打は中日時代の59年(昭34)4月11日の対大洋1回戦(中日球場)で鈴木隆投手から奪っている。
 75年9月7日付のスポニチ東京版の2面の最下段に罫線で囲まれた記事は10行程度。2000本安打という偉業を達成しながらあまりにも小さい淡々としたものだった。通算記録よりも日々の勝ち負けの方を重要視する傾向に当時の球界やマスコミがあったとはいえ、その後の2000本安打達成者や200勝投手の丁重な扱いと比べると隔世の感がある。

 セパ両リーグで初の獲得を含む首位打者3回という実績を残しながら、引退後は球界からお呼びがかからなかった江藤のその後を暗示するようでもあった記念日のヒットの扱い。江藤はひと言だけ談話を残していた。「記録よりも勝てばチームは5割だった。勝ちたかった」。監督・江藤は選手・江藤の記録にはあまり関心を払っている余裕がなかったようである。
 江藤にとって記念すべきはずの2000本安打は、その感慨に浸る余裕もないほど激動の1年に達成したものだった。
 監督就任が決まったのが74年11月。“親分”大沢啓二前ロッテ監督の就任が9分9厘決まりかけていたのを「かつての西鉄のような荒々しい野武士野球を」と中村長芳オーナーが一転して、大洋にいた江藤に白羽の矢を立てたのが始まりだった。ファイトむき出しのプレーと首脳陣にも思ったことを口に出す“闘将”江藤は投手出身で選手を長い目で見て育てようとする前任の稲尾和久監督のカラーを一掃すべく、力のある強打線で打ち勝つ野球を標榜した。
 トレードで日本ハムから白仁天外野手、近鉄から土井正博外野手のスラッガーを獲得。元メジャーリーガーの外国人のアルー、ビュフォード、チーム内にも竹之内雅之外野手がおり、江藤と合わせて破壊力満点のチーム構成となった。
 ひとクセもふたクセもある個性派ぞろいのチームについたニックネームは“山賊”軍団。派手打ち勝つゲームがあるかと思えば、打てないときは全くお手上げという大雑把な野球だったが、低迷するライオンズの現状を打ち破るのではないかという期待をファンに抱かせた。
 個性重視は個人成績に表れた。移籍の白は3割1分9厘で初の首位打者を獲得、同じく移籍の土井も34本塁打でホームランキングをこれも初めて獲得した。投手陣でも東尾修投手が23勝で最多勝。タイトルを獲らせるために、白や土井の打順をいじるだけでなく、欠場もさせた。東尾に関しては連投をさせ、勝てそうな試合はリリーフで登板させ、白星を稼いだ。「タイトルを獲れば選手として責任が芽生える。それがチームの強化に繋がる」というのが江藤の持論だった。
 しかし、打撃3部門に2人、最多勝と計3人も主要タイトルを3人も獲得しながら、太平洋は借金4。西鉄から西武への過渡期の太平洋・クラウンライターの6年間で唯一Aクラス3位入りしたものの、江藤の采配にはフロントは顔をしかめた。
 「優勝もしていないのに個人タイトルばかり獲らせて…。契約更改がゾッとする経営者泣かせの監督だ」。借金がかさみ、給料の遅配もあった当時のライオンズにとって、江藤の山賊軍団は迷惑な存在になっていた。
 1度は留任が決まった江藤だが、75年12月にフロントは大リーグの名将レオ・ドローチャーに監督就任を打診。前向きな返事をもらうと、江藤を打撃コーチ兼選手に格下げ。「やはり一選手の方がワシは向いている」と年末になって太平洋を退団。事実上退団に追い込まれた江藤は、バットマンとしての“死に場所”を求めて金田正一監督の誘いで古巣のロッテ入りした。

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