日めくりプロ野球 9月

【9月13日】1955年(昭30) “敗戦監督”保井!マウンドからのシグナル無視して逆転負け

[ 2008年9月10日 06:00 ]

東映の練習を見守る保井浩一監督。1961年から2年間、大洋のコーチとして三原脩監督に仕えたこともあった
Photo By スポニチ

 【トンボ6-5東映】南海(現ソフトバンク)と西鉄(現西武)による優勝争いから実に40ゲーム以上も離された、7位東映(現日本ハム)と8位トンボ(高橋ユニオンズ、57年に毎日=ロッテと合併)の“最下位決定シリーズ”は、水曜日にもかかわらず東京・駒沢球場でダブルヘッダー。その第2試合、観客わずか1000人のゲームで、東映・保井(やすい)浩一監督が選手の“お願い”を無視して逆転負けした。
 7回表、2-5と3点を追うトンボは二死から東映先発の樽井清一投手を攻め、満塁のチャンス。マウンド上の右腕はしきりとベンチの方を見て、帽子を取っては汗をぬぐい、マウンドに座り込んだりしながら苦しそうな顔をした。この年、完投が1度もない樽井は100球以上投げ、すでに腕はヨレヨレ。握力はなくなり、指先はシビれ、顔にははっきり「代えてくれ」と書いてあった。

 今なら投手コーチが行くなり、内野手が集まったりする場面だが、ベンチから誰一人出てこない。保井監督は樽井と視線を合わせないように、ソッポを向いたまま。“お前がまいた種だ、最後まで投げろ”と言わんばかり。ブルペンで投球練習をしている投手もいなかった。保井監督にしてみれば3年前には12完投し9勝した樽井が最後まで投げられないのは怠慢のなにものでもないと考えていたようだったが、球威は確実に落ちていた。
 そんな険悪な雰囲気の中、ここまで無安打だったトンボの2番・前川忠男遊撃手が三遊間を破るヒット。2者が生還し、1点差に詰め寄った。ようやく保井監督が重い腰を上げ、リリーフに寺川昭二投手を投入したが、すでに流れは変わっていた。この日、二塁打3本と大当たりの3番・石川進右翼手に当時のパ・リーグ記録に並ぶ1試合3本の二塁打を打たれ、東映は逆転を許した。試合はこのまま終わり、トンボの勝利。翌日の新聞各紙には保井監督の“投手交代拒否”をこぞって取り上げ「“敗戦監督”保井!」(9月15日付スポニチ)の見出しがおどった。
 最下位こそ逃れたものの、この投手交代事件で選手との溝を深まり、チーム内のゴタゴタが大川博オーナーの耳にまで達すると、保井監督は1年で解任。新監督となった岩本義行のとりなしでなんとか2軍監督として残ったが、代理監督以外で1軍の将として指揮を執ることは2度となかった。
 プロの監督としては結果を残せなかったが、復活に手間取った母校の京都・平安(現龍谷大平安)を戦後初の甲子園に導くなど、チーム育成には手腕を発揮。2軍監督時代は、ファームでくすぶっていた軟式出身の土橋正幸投手を3年目で一本立ちさせ、東映のエースに成長させた。東映で4年コンビを組んだ岩本監督とはよほどウマが合ったらしく、65年に岩本監督が近鉄に移るとコーチとして入閣している。
 現役としては実働2年で通算93安打10本塁打。内野手だったが、投手として1試合登板している。平安の監督を勇退した後、知り合いの勧めで東急(東映の前身)のキャンプに参加、選手登録されないままいきなりオープン戦に代打で起用され、ヒットを打ったことで採用が決まったという逸話を持つ。
 平安でも1938年(昭13)夏の第24回大会決勝でサヨナラヒットを放ち、平安に初優勝をもたらすなど、勝負強い打者だった。01年11月27日没。野球界を退いてからは故郷の滋賀県で割烹旅館を経営していた。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る