日めくりプロ野球 9月

【9月10日】1984年(昭59) 「もう疲れた」江夏豊“最後の登板”は1安打投球も寂しく…

[ 2008年9月7日 06:00 ]

最後の登板となった西武2軍のシート打撃で投げる江夏豊。外野では登板しない2軍投手がトレーニングをしながら“観戦”。大投手のあまりに寂しい“引退試合”だった
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 残暑の強い陽射しがマウンド上の背番号18に降り注ぐ。まるでこの“最後の登板”のために用意されたスポットライトを浴びているようだった。観客は誰もいない埼玉・所沢、西武第二球場。幾多の栄光の記録を打ち立ててきた、伝説の左腕・江夏豊投手が最後に選んだマウンドは、西武2軍のシート打撃だった。

 最初の打者は、江夏とはひと周り以上年齢の離れた鴻野淳基内野手。「初球の真っ直ぐが伸びていた。変化球が来るのかなと思ったら、ストレートがピッと来た。1軍の、しかも一流のボール。さすがです」とカウント1-0から遊ゴロに打ち取られた。後に常勝西武の守備の要として活躍した辻発彦内野手も当てるのが精一杯の三ゴロ。1軍でも左の代打として活躍していた岡村隆則外野手も三飛。「ファームに来た頃よりスピードがある。何しろ見下ろして投げているのがすごい。やはり江夏さん」と舌を巻いた。
 ストレートを中心にカーブ、シュート、スライダー、チェンジアップ、フォーク…滴り落ちる汗を拭おうともせず、ありとあらゆる持ち球を披露した江夏。2軍相手、しかもシート打撃で全力投球。時折、相馬勝也捕手の出すサインに首を振りさえした。
 最後の打者は鈴木葉留彦内野手。10年目のベテランに投じたのは、インコースの真っ直ぐ。完全に力負けした打球は、ショートへのポップフライとなった。さっぱりとした表情で、岡田悦哉二軍監督に軽く左手を上げたのが合図だった。ほとんど休みなしで黙々と打者17人に56球を投げ終えた江夏は、肩で息をしながら、いつものように太鼓腹を揺らして、最後のマウンドを降りた。
 「終わったな。18年の務めが終わったよ。もう疲れた、本当疲れたよ」。そう言ったきりしばらく何も話さなかった。江夏の口から出た、これが“引退宣言”。日本ハムから西武に移籍して1年も立っていなかった。阪神時代は剛速球を武器にV9巨人に立ち向かい、奪三振記録をはじめ、先発完投投手として栄光の日々を過ごした。南海でストッパーに転向、、広島、日本ハムでは抑えの切り札の先駆者として“優勝請負人”という最高のキャッチフレーズも付けられた。
 それが管理野球の広岡達朗監督率いる西武では水が合わなかった。体力も衰え20試合1勝2敗8セーブ、7月には腎臓を患い入院。プロ入り後初めて1軍登録を抹消され、苛立ち紛れに出たのは広岡監督ら西武首脳陣批判だった。
 一匹狼。暴言を吐いても、プロの厳しい世界を自分の左腕一本で生き抜いてきたが、最後はその左腕も必要とされず“戦力外”扱い。江夏がシート打撃に登板した日、目と鼻の先の西武球場で日本ハムとのナイターが予定されていたが、江夏が投げることを知っていても、広岡監督はもちろん八木沢荘六投手コーチですら、姿を見せなかった。
 「この前“ナチュラル”っていう映画観たんよ。その中で“記録はなくとも名は残る”っていうセリフがあった。感銘を受けたなあ」と江夏。ロバート・レッドフォード演じる40歳間際のオールドルーキーが大リーグ入りし、本塁打を量産するも、古傷がもとでリタイア。優勝決定戦に強行出場すれば、2度とグラウンドには立てない体になるという中でのセリフがこれ。大記録は残せなくても、あの年ホームランをかっ飛ばし続けた選手がいた、という記憶はいつまでもファンの脳裏に鮮明に焼きついている--。そのシーンを江夏は自分と重ね合わせた。通算206勝は尊敬する村山実投手(阪神)の222勝にあと16勝足りず、当時は前人未到の200セーブにはあと7、こだわり続けた三振も3000個まであと13に迫っていたが、「記録のためにやってるわけやない。ファンが覚えておいてくれればええ」とささやくように話した。
 10月1日、江夏は荷物整理のために西武第二球場に姿を見せた。2軍はイースタンの公式戦で秋田に遠征中。江夏を送ってくれたのはわずか8人のけがなどで遠征に参加していない選手らだった。その2日前、西宮球場での阪急戦で多くのファンに見守れながら華やかに引退した、田淵幸一内野手とは雲泥の差だった。
 自由契約になった江夏は燃え尽きてはいなかった。最後の挑戦はメジャーリーグ。ミルウォーキー・ブルワーズの招待選手としてキャンプに参加した。最後の1枠をめぐる争いまで残ったが、36歳という年齢がネックになり落選。江夏の戦いが終わったのは、翌85年4月だった。

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