日めくりプロ野球 8月

【8月17日】1979年(昭54) 日本一監督・広岡達朗 10カ月で解任のワケ

[ 2009年8月1日 06:00 ]

プロ野球史上名将の一人に数えられる広岡監督は、82年に西武を率いて球団創設4年目に優勝した
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 【巨人9-2ヤクルト】後楽園での巨人-ヤクルト16回戦にヤクルトの指揮官はベンチに姿を見せることはなかった。ヤクルトを率いる広岡達朗監督はその時、後楽園から約5キロ離れた神宮球場のクラブハウスでマスコミ各社に手渡す声明文を書いていた。

 声明文を要約するとざっと次のようになる。
 成績不振を理由に、佐藤球団社長から森昌彦ヘッドコーチ、植村義信投手コーチを戦列からはずし、休養させるという方針を伝えられ、17日に監督の了承を得ずに、これを決定した。チーム不振の責任は、あくまで監督にある。2人のコーチを欠くことはできないという監督の意向を無視して、下した決断は極めて遺憾で、このような状態では指揮は執れない。そう球団社長に言ったところ、「それなら君は辞表を出したまえ」と言われた…。
 声明文は監督辞任を発表するものだった。球団創設29年目の初優勝、日本一から10カ月。栄冠を勝ち取った監督が1年もたたないうちに事実上解任されるいう前代未聞の騒動となった。
 借金15を抱えて最下位に沈んでいたヤクルト。首位広島から5位大洋までわずか4・5差の真夏のデッドヒートとは無縁で5位とさえ6ゲームも離れていた。チームというのは勝っている時は不満が出ないものだが、負けだすとあちらこちらから噴出するものである。ファミリー的な雰囲気で勝負は二の次という体質のヤクルトに、グラウンドではもちろん食生活から自由時間まで徹底した管理体制を敷いた広岡監督は、試合でのミスは罰金などを容赦なく課した。それが初優勝につながった要因の一つではあったが、翌年開幕6連敗スタートとなると、不満分子が頭をもたげはじめた。
 チーム内の不協和音を察した佐藤球団社長は夏場に入るとチームの遠征にも帯同。その結果、選手からは広岡監督というよりもその指示で動く、森、植村コーチに反発している選手が多いことに気がついた。
 「森さんはアラ探しばかり、植村さんは細かいことで厳しすぎる」。プロとは思えない、小学生の子供のような選手さえいた。ヤクルトの選手は大きく変わった、とマスコミもファンも優勝した時は褒め称えたが、1年勝ったくらいでは実際はプロとしての意識改革ができていなかったのである。
 2人のコーチは広岡のたっての希望で入閣していた。これを辞めさせれば、広岡も必ず辞める、という図式がこの騒動のシナリオだった。案の定広岡は報道陣の前で辞意を表明。その日のうちに神宮の監督室の荷物をまとめて、愛車ホルクスワーゲンで立ち去り、2度とスワローズのユニホームに袖を通さなかった。
 球団がほとんど慰留もせずに優勝監督を切ったのは、成績不振だけが理由ではなかった。76年5月に休養した荒川博監督の代行として就任し監督に昇格。77年の2位に続き、78年優勝とチームは確実に力を付けていったが、広岡監督とフロントは衝突ばかりしていた。積極的なトレードでチーム内の血の入れ替えを要求した指揮官に対し、トレードは基本にはしないという球団の方針は対立。しかも「広岡君は中継ぎ。次は生え抜きにやってもらう」という球団トップの声は広岡の耳に聞くともなしに入ってきていた。
 広岡は優勝を置き土産に、スワローズ生え抜きでフロントにウケが良い武上四郎コーチに監督の座を譲り、自身は阪神からの熱烈なラブコールに応える腹でいた。しかし、ヤクルトは日本一に。松園オーナーの「日本一の監督をクビにしたら格好が悪い」という判断で、フロントが折れ3年契約を結んだ。
 広岡は条件として大幅なトレードをすることをフロントにのませ、優勝の立役者でもあったが守備に難のあるチャーリー・マニエル外野手を放出。神部年男投手らを獲得した。しかし、このトレードは大失敗。指名打者に専念したマニエルは守備の心配がなくなり、打棒が爆発。近鉄の優勝に貢献したが、神部はセ・リーグの野球に順応できずこの年6勝止まり。コケた広岡に今度はフロントが逆襲、一気にクビにしてしまった。
 広岡を追い落としたヤクルトだが、80年こそ優勝の“遺産”で2位になったが、その後は低迷。野村克也監督によって93年に優勝するまで15年もBクラスをが指定席になってしまった。

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