日めくりプロ野球 8月

【8月18日】1957年(昭32) 45歳5カ月 岩本義行、いまだに最年長記録の本塁打

[ 2009年8月1日 06:00 ]

身長1メートル64と小柄ながら飛距離もあった岩本。近鉄でも1年監督を務めた
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 【阪急8-3東映】真夏の駒沢球場、ダブルヘッダー第2試合。東映の岩本義行外野手兼任監督はスターティングメンバーに名を連ねた。今季10試合目の出場。第1試合で阪急・梶本隆夫投手に4安打完封負けした不甲斐ない打線に奮起を促そうと、自らバットを握った。
 4回1死。5番に入った岩本は体の正面でバットを真っ直ぐ立てて構える独特の「神主打法」で、阪急先発の種田弘投手の2球目を完璧にとらえ、左翼席中段まで運んだ。シーズン1号本塁打、通算123号となる一発は45歳5カ月と7日目の一撃だった。

 投手では48歳で白星を挙げた阪急・浜崎真二投手や46歳で現役最年長勝利をマークした横浜・工藤公康投手など、45歳を過ぎての快記録があるが、岩本が放った半世紀以上前の本塁打は、いまだに日本プロ野球史上最年長記録として球史に刻まれ続けている。
 この1本を最後に現役を引退。東映の監督もこの1年限りだったが、最年長本塁打が示すように、本塁打それも“1号”という冠が付く記録を数多く持つ選手だった。
 セパ両リーグに分かれて試合が行われるようになった1950年(昭25)。当時、松竹ロビンス(後に大洋と合併、現横浜)に在籍していた岩本は3月11日、下関球場での開幕2戦目、対中日1回戦で本塁打を放ったが、これがセ・リーグの第1号本塁打。38歳の誕生日、しかも満塁本塁打というオマケつきだった。セ・リーグのナイター1号本塁打も岩本だった。
 1試合3本塁打(南海時代、42年)、1試合4本塁打(松竹時代、51年8月1日対阪神戦、長野)と派手な“1号”もこの人。本塁打だけではない。現在のプロ野球では達成するとかなり話題になる“トリプルスリー”の“1号”も岩本で50年に打率3割1分9厘、39本塁打、34盗塁をマーク。阪神・金本知憲外野手も広島時代00年にトリプルスリーを達成したが、32歳の時。岩本は38歳にして記録を残した。当時と今とでは野球技術も格段に進歩し、一概に数字だけでは比較できないが、それを差し引いても素晴らしい成績には違いない。
 “山陽のベーブ・ルース”と呼ばれ、広島・広陵中学(現広陵高)で活躍し、明大に進学。東京六大学でも首位打者を獲るなどならしたスラッガーだが、卒業後は職業野球に進まず、「野球はもう飽きた。これからは普通の勤め人で生きる」と電力会社に就職。一転、プロ入りしたのは南海(現ソフトバンク)が創立された38年(昭13)。「やっぱり野球が一番おもしろい。これでメシを食っていく」と決意したからだった。
 戦後は一時社会人野球に身を置き、49年(昭24)に復帰。以後の活躍は数々の記録が物語るように華々しかったが、タイトルとは無縁。ベストナインが2度あるだけ。内角球をおそれず「球から逃げてて打てるか」と攻められても攻められても踏み込んで打ったことから、52年には24死球を日本記録。これも07年にオリックス・ラロッカ内野手が28死球するまで、55年も日本記録だった。
 「おっちゃん」と呼ばれ後輩からも慕われた。よく練習もしたが、遊びも大好き。ユニホーム姿のまま麻雀したり、ホームラン賞の賞金なども後輩におごってしまい、居酒屋や芸者置屋からそのまま試合に行くこともよくあったという。
 08年9月26日、急性心不全で死去。明治45年生まれの96歳という大往生だった。晩年は郷里の広島に帰り、近所の子供たちが野球をしているのを微笑みをたたえながら眺めるのが日課だったが、かつてプロ野球のホームランバッターだと名乗ることは一度もなかったという。
 

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