日めくりプロ野球 8月

【8月7日】1975年(昭50) 失明の危機からカムバック 金城、執念の29球

[ 2009年8月1日 06:00 ]

奇跡のカムバックを果たした金城。通算68勝71敗92セーブ。移籍先の南海では79、80年に最優秀救援のタイトルホルダーとなった
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 【広島10-7ヤクルト】ウイニングボールは覚えたての変化球だった。ヤクルトの4番大杉勝男一塁手が泳ぐようにしてバットに当てた打球は、力のない三ゴロ。この日、初回に先制の15号3点本塁打を放った広島・衣笠祥雄三塁手が難なくさばく前に、マウンド上の背番号27はもうバンザイをしていた。
 ちよっと早過ぎたバンザイにも、笑うチームメイトは誰もいなかった。それ以上にバンザイの意味が分かるからこそ、本人と同じように嬉しかった。勝ち越しの19号2ランを放った4番山本浩二中堅手は言った。「何としてでもアイツに勝ち星を付けるんだ、という思いだけで打った。アイツの苦労を考えると、投げている姿に胸が熱くなった」。

 ゲームセットの前に両手を上げた男は、広島・金城基泰投手。8月1日に1軍登録されたばかりの金城は、2日の大洋戦に続いて2試合目の登板。7回2死二塁の場面からリリーフに立ち、3奪三振を含む打者7人を29球で完璧に抑えてのシーズン初勝利だった。
 「最高のピッチングです。勝てたらどんな気持ちがするだろうと夢にまで見てきたが、実際味わってみると…」。試合後のヒーローインタビュー。声を震わせ、それ以上言葉が出ない金城がいた。前年の74年、20勝をマークし最多勝のタイトルむを獲得。エース外木場義郎投手と並ぶ広島投手陣の柱が、シーズン1勝目でこみ上げてくるものがあった。
 74年10月、オーバーホールを兼ねて20勝のご褒美にと費用球団持ちで出かけた別府温泉でまさかの交通事故。視神経をやられ、失明の危機にまで陥る深刻な状況となった。
 半年後の4月に退院。「野球はあきらめた方がいい」と医師には告げられた。集中力が求められる野球で目に支障があるうちは、とてもじゃないけれど復帰はできない。日常生活でも目が疲れ、薬の副作用も半端ではなかった。「死ぬことを考えたこともあった」と金城。精神的には極限まで追い詰められた。
 それでもカムバックまでにこぎつけたのは、金城の野球に対する執念と75年のカープの快進撃だった。20勝で倍増した年俸を半分返還、投げられなかったら後半分もいらないとまで言った。ただリハビリに励むだけではなく、その間に新球をマスターした。それが75年の復活で生きたチェンジアップだった。
 大阪・此花商高時代に転向したアンダーハンドから繰り出す速球は、スピードガンのない時代でも「150キロ近かったのでは」(広島・古葉竹識監督)というほど威力があったが、これに緩急をつけて投球の幅を広げるという発想からマスターしたものだった。
 復活した金城の初勝利とともに広島はシーズン8度目の首位に立った。まさに七転び八起き、原爆が投下された8月6日以降で首位に立つのは初めてのことだった。以後カープは1度も首位を陥落することなくトップを走り、10月15日、後楽園での巨人最終戦で広島は球団創設26年目で初優勝を勝ち取った。
 9回のマウンドにいたのは、完封ペースの外木場ではなく、8回途中から登板した金城だった。首位に立って以降、苦しい場面でのリリーフに立ち、修羅場を乗り切ってきた。「金城が戻ってこなかったら優勝できなかった」と古葉監督。どん底からのリハビリを乗り越え復活、そして獅子奮迅の働きに対して指揮官がプレゼントしたのは、胴上げ投手という最高の栄誉だった。

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