日めくりプロ野球 8月

【8月24日】2004年(平16) “長嶋ジャパン”無念の惜敗 遠かった金メダル

[ 2008年8月21日 06:00 ]

3位決定戦に勝利し、記念撮影を行った長嶋ジャパンの選手たち
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 【オーストラリア1-0日本】北京五輪で星野仙一監督率いる日本代表は国民の期待通りとはいかず、2000年のシドニーと同じくメダル獲得はならなかった。
 その4年前、顔ぶれは違えど同じく24人の戦士も“至上命令”ともいえる金メダルに向かって死力を尽くして戦った。
 セパ各球団から2人ずつ、チームの顔とも言うべき選手計24人によって構成された日本代表、通称“長嶋ジャパン”はこの日、アテネ五輪野球準決勝、対オーストラリア戦を迎えた。
 いつもならわけなく取れるたった1点が奪えず、決勝進出を阻まれ、勝っても銅メダル止まりの3位決定戦に回ることになった。ダイエー・城島健司捕手はセーフティーバントを試み、ボテボテの内野ゴロで近鉄・中村紀洋三塁手は一塁へ猛然とヘッドスライディング…。病に倒れ、アテネの地を踏めなかった長嶋監督の代わりにベンチに掲げられた背番号3のユニホームの前で、日本野球のトッププレーヤーは、あらゆる手を尽くし、必死のプレーを見せたが三塁ベースから27・431メートル先にあるホームベースは遠かった。

 イチローや松井秀喜のメジャー組を除き、当時プロ野球で構成する選手としてはベストといえる打線は、4回まで毎回安打。先制のチャンスは何度もあった。しかし、緊張からか、予選リーグで勝っている相手でリラックスし過ぎたのか、得点圏に走者を置きながら俗に言う「あと1本」が出ない状態が続いた。
 こうなると流れが変わるのが野球。逆に4回まで無安打8奪三振と絶好調だった西武・松坂大輔投手が“ワンチャンス”をものにされ、1点を奪われた。
 7回、日本は2つの失策で二死一、二塁。打席には阪神・藤本敦士二塁手、マウンド上はその藤本のチームメイト、阪神のジェフ・ウィリアムス投手。豪州出身の左腕は、ここ一番でストッパーとして登場した。
 長嶋監督の代理として指揮を執る、中畑清ヘッドコーチら日本代表首脳陣は、この時迷っていた。左対左の対戦となるため、代打に右の横浜・相川亮二捕手を送ることを考えた。アテネでは主にブルペンで投手陣の調整を買って出ていた相川だが、打撃練習では快音を飛ばし、調子は良かった。
 しかし、ベンチは藤本をそのまま行かせた。同じチームで藤本はウィリアムスのことを良く知っているという判断がそこにはあった。しかし、内野手として後ろからは見ていても、打席で対戦するのは初めて。少なくとも相川は公式戦でその球筋、球質を体感していたがピンチヒッターのコールは球場に響かなかった。
 藤本は結局、二飛。結果で見れば、この後日本は8、9回3者凡退に終わり、最後のチャンスを生かすことができず、金メダルを逸した。「負けたという現実を受け止めたい。選手たちは力を出し切った」。カリスマ的存在の長嶋監督と比較され、絶対金メダルの重圧の中で戦った中畑ヘッドは、言い訳を一切しなかった。
 金、銀メダルこそ逃したが、戦いはまだ続いていた。キャプテンとしてチームを引っ張ったヤクルト・宮本慎也内野手は言った。「僕らはプロ。最後まで責任を果たしたい」。
24人は責任を果たした。翌25日の3位決定戦。カナダ相手に城島の先制2点本塁打を含む13安打11点で大勝(日本11-2カナダ)。銅メダルを獲得し、日本のメダル数は計33個に。84年のロス五輪の記録を塗り替え最多メダル数となった。城島は言った。「メダルの色は違うが後悔はない。胸を張って日本へ帰ることができる」。
 北京での結果は確かに残念ではあるし、力が出し切れたとは言えないかもしれない。それでもその瞬間、その瞬間、最善と思える戦いはしたはず。メダルはなくとも24人の選手の全力プレーは心に刻んでおきたい。

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