日めくりプロ野球 8月

【8月17日】1968年(昭43) 怪童も絶賛!22歳の背番号22、昼夜で6戦連続本塁打

[ 2008年8月15日 06:00 ]

本塁打を放ち、中西監督(左から2人目)に迎えられる東田正義(同3人目)。右翼への打球が伸びる右打者でもあった
Photo By スポニチ

 【西鉄6-0南海】巨体を揺すりながら、西鉄・中西太監督の笑いが止まらない。「ワシの若い頃よりすごいで。出ればホームランやからなぁ」。怪童と呼ばれた中西監督が、それ以上と太鼓判を押したのが、社会人三重交通から67年ドラフト2位で入団した、東田正義外野手。平和台球場での南海18回戦の5回、代打で登場し、左腕林俊彦投手から左翼スタンドに飛び込む3点本塁打を放った。
 これで13日に1軍で初安打となる1号を近鉄・小野坂清投手から放って以来、3本のヒットはすべて本塁打。「夢中でやっているだけ。少しは1軍でも気後れしなくなったかな」と、22歳、背番号22の新人は表情を崩した。

 実は東田、“6試合連続”本塁打だった。1軍では3本だが、昼間に行われるウエスタンリーグの試合にも出場、ここでも3試合連続本塁打を記録しており、1軍の3試合と合わせるとこの数字になった。若手とはいえ、しっかり1軍で結果も残しているのに、真夏のデーゲームに参加させた後、ナイターでもベンチ入りする“親子ゲーム”を命じていたのは、中西監督。「彼はねえ、ファームで(本塁打を)打つと、本チャンでも打ちよるからよ。縁起かついで出てもらっとる」。
 1軍で本塁打を打った3試合はすべて西鉄は白星。すべて意味のある1発だった。プロ1号は同点で飛び出した決勝アーチ。翌8月14日の2号は近鉄の左腕・鈴木啓示投手から逆転2ラン。そして3号は南海の息の根を止めるダメ押し3ラン。いずれもサウスポーから打った“左殺し”でもあった。その後も13試合で7本塁打。「出れば、打つ」の神話はしばらく続いた。
 もともと「足と肩に自信がある」(東田)選手だった。バッティングにはムラがあり、時々目の覚めるような本塁打も放つが、穴も多いというのが各球団のスカウト評。しかし、プロでは中西監督がその才能を見抜き、1軍で起用。中西退団後、稲尾和久監督になっても主軸を打ち、23本塁打を放った71年には球宴初出場。72年も選ばれ、西鉄終末期の4番打者として輝きを放った。
 順調な野球人生だったが、西鉄から球団が太平洋に変わると、チーム変革の波に飲まれた。西鉄色を一掃しようとする球団の方針で、74年オフにトレード要員に。入団時監督だった中西日本ハム新監督に請われ、白仁天外野手との交換でファイターズ移籍。日本ハムも脱東映の方針で古くからの選手をどんどん出していた時だった。
 期待された東田だが、ファイターズでは8本塁打に終わり、中西監督も最下位の責任を取って退陣すると、在籍1年で今度は阪神にトレード。相手は日本人大リーガー1号の村上雅則投手と後藤和昭内野手だった。阪神では田淵幸一捕手、ハル・ブリーデン一塁手の後の6番に座り、121試合に出場。12本塁打を放ち、3年ぶりに2ケタに乗せた。
 しかし、当時の吉田義男監督と合わず、在籍2年で退団。中日、南海などにトレードを打診したが、30歳過ぎのベテランに声はかからなかった。10年のプロ生活で763安打中123本がホームラン。71年のオールスターで阪神・江夏豊投手が記録した9連続三振の6番目に三振した選手は、球宴初出場の東田。その阪神へ移籍した76年に江夏はタイガースを去り、南海へと移っていた。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る