日めくりプロ野球 2012年6月

【6月16日】1946年(昭21) 盗塁王・呉昌征 戦後初のノーヒットノーラン達成

[ 2012年6月16日 06:00 ]

 【阪神11―0セネタース】支配下登録70人に育成まで入れると、100人近くの選手がいるチームもある現代のプロ野球。が、太平洋戦争が終わり何もものがなかった時代、再開した職業野球には選手も満足にいなかった。関西の老舗球団、阪神も例外ではなくこの年は全選手合わせて26人。特に6人しかいない投手は完全に不足していた。

 そこでマウンドに立つことになったのが、台湾出身の呉昌征(ご・しょうせい)外野手。その俊足ぶりから“人間機関車”と呼ばれ、戦前最後の公式戦が行われた44年(昭19)に盗塁王に輝いた男は、西宮球場で行われたセネタース5回戦に先発。122球を投げ、わずか1時間半弱で完封勝利を収めた。しかも四死球5個を与えただけのノーヒットノーラン。戦後復興した野球の第1号の快記録だった。

 ノーヒットノーラン達成となれば、新聞も大々的に扱うのが当たり前の昨今だが、物資不足の終戦直後は表裏1枚が新聞の常識。しかも戦後の混乱期で載せなければならない記事ばかり。野球の記事は新聞の隅っこの方に、いわゆる“ベタ記事”扱いで結果のみが出ていた。ノーヒットノーランだろうが、逆転サヨナラ満塁本塁打を打とうが、小さな見出し一つ入らなかった。

 当時野球の技術レベルはともかく、盗塁王とノーヒットノーランを達成した選手は、後にも先にも呉ただ一人だ。46年は101試合に出場し、うち投手として27試合に投げ14勝6敗の数字を残した。打者としても打率2割9分1厘をマーク。どちらが本業かわからない状態だったが、下馬評の低かった阪神は呉の活躍もあり、再開したプロ野球で3位に入った。

 台湾・嘉義農林時代に甲子園は春夏4度出場。投手、外野手としてチームの柱となったが、投手としてはそれほど芳しい成績を残したわけではなかった。特に35年(昭10)の夏の2回戦では、呉を初めリリーフにたった2投手とともに、計21四球を出し、チームは7点を奪いながら、埼玉・浦和中に12点を与え敗退。以来、このサウスポー投手が主戦投手になることはなかった。

 すっかり忘れていたピッチャーの仕事を思い出させたのは、開幕2日目の阪急戦(西宮)。藤村富美男監督から頼まれ、試合で投げることになった。ひょうひょうと投げたのが良かったのか、9安打されながらも1失点で完投勝利。その場しのぎだったはずの藤村監督は、呉をローテーションに組み込んでしまった。

 さらに登板しない時は「1番・中堅」でスタメン出場。登板日は打順こそ9番だったが、常にフル回転。身長1メートル67、体重64キロと小柄な体は、どこまでも丈夫。弱音を吐かずに黙々と打ち、そして投げた。

 57年に毎日(現ロッテ)を退団後、球界に戻ることはなかった。夫人の姓を名乗り、日本に帰化し、貿易の仕事や食品会社の監査役を務めたりした。87年6月7日に心不全のため70歳で死去。戦後初のノーヒットノーランから40年の歳月が流れていた。

 

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