日めくりプロ野球 2012年6月

【6月2日】1946年(昭21) “虹の橋”をかけた男 大下弘 第1号本塁打

[ 2012年6月2日 06:00 ]

 【中日15―14セネタース】青空に放物線を描いて西宮球場の右翼スタンドに消えた白球は、大人も子どもも関係なくため息を誘うほど美しいものだったという。

 終戦から1年足らずの昭和21年初夏。戦後に産声を上げたセネタース(現在の日本ハムが流れを汲む)の4番大下弘は、中日の林直明投手から公式戦初本塁打を放った。

 3回、2死満塁の好機での一発だった。今では見られなくなった、下からしゃくりあげるような打撃フォームで低めのボールをすくい上げで観客席まで運んだ。現在の「飛ばないボール」など比ではない粗悪品のボールを、反発力の悪い粗末なバットでスタンドに打ち込むのは、並大抵のことではなかった。そんな時代のホームランは野球ファンの憧れ。その憧れを目の前で見せ、「驚天動地の本塁打王」の代名詞を付けられたのが大下だった。

 4月27日にプロ野球が再開してから1カ月余。そこで1号本塁打なのだから、はっきり言って遅かった。だが、そこから本塁打王・大下の本領が発揮された。

 8月31日、後楽園での対金星戦の初回、内藤幸三投手から右翼へ11号弾を放った。この11本目こそ、戦前の1938年(昭13)に巨人・中島治康、39年の南海・鶴岡一人の2人が持つシーズン10本塁打を上回る新記録となった。大下は9月に7本塁打を放つと、10月は1本に終わったが、シーズン最終戦となった11月5日、後楽園での巨人戦で川崎徳次投手から左翼への20号アーチを打った。プロ野球界で初めて20本塁打で当然戦後最初の本塁打王に輝いた。

 この年の大下の本塁打には大きな特徴があった。20本中最後の1本を除いて、全て右翼への本塁打。中堅や左中間、右中間もなくコテコテのプルヒッターだった。変化球はお手上げで、直球ばかりを強引に引っ張るため、バッティングも強引になり、三振の数は80個と断トツ。チームは8チーム中5位と低迷し、大下は本塁打ばかりを狙っていると、批判を浴びる始末だった。

 戦前の職業野球を経験せず、明大でも東京六大学の公式戦に出ぬまま、学徒出陣で軍隊へ。復員後、まだ籍のあった明大野球部に顔を出し、練習をしていたところOBの横沢三郎氏にスカウトされ、セネタース入り。パンチ力は十分だったが、荒削りもいいところ。その批判に大下は「ならやってやる」と意地をみせ、広角打法を身につけ、本塁打王3回だけでなく、首位打者も3度受賞。天才打者であることを証明した。

 

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