日めくりプロ野球 2011年10月

【10月20日】1975年(昭50) 闘将・西本幸雄 たくましくなった教え子にやられる

[ 2011年10月20日 06:00 ]

キャンプで陣頭指揮に立つ西本監督

 【阪急5―3近鉄】150キロは超えようかという快速球に、振り遅れた近鉄・羽田耕一三塁手の打球は、藤井寺球場の一塁ファウルゾーンに力なく上がった。阪急・加藤秀治一塁手がガッチリつかむと、一塁側の近鉄ベンチの西本幸雄監督は瞬きもせずに最後の瞬間を見届けていた。

 セ・リーグの広島が球団創設26年目にして初優勝を飾った75年。広島同様、リーグ優勝すら1度もなくパ・リーグのお荷物扱いされていた近鉄が後期優勝で臨んだ、前期優勝阪急とのプレーオフは1勝3敗で終わり、悲願の初Vは近づいたものの、また夢に終わってしまった。

 歓喜の輪をグラウンドで作っていたのは、2年前までブレーブスの指揮を執っていた西本監督のかつての教え子ばかり。宙に舞った上田利治監督は西本の下でコーチを務めていた。近鉄同様、万年Bクラスの阪急を5度もリーグ優勝させ、かつての南海、西鉄(この当時は太平洋クラブ)という2強に取って代わって、パの盟主にまで引き上げた西本は、シーズンの最後の最後にきっちりと“恩返し”されてしまった。

 「せっかくここまでこれたのだから、日本シリーズに出たかったというのが本音。チームは成長している。私の采配がまずかった。この悔しさを糧にして来年は戦いたい」。これで日本シリーズ6度、プレーオフは2度敗れ、「短期決戦に弱いニシさん」のイメージがますます強くなってしまった。

 実は年間のトータルで見ると勝率は近鉄が阪急を6分7厘も上回り、ゲーム差にして8ゲーム差でぶっちぎりの“優勝”だった。リーグを盛り上げるために始まったプレーオフ制に泣かされた近鉄だった。

 ただ、西本監督が言ったように、勝利の味に飢えていた近鉄は徐々に勝てるチームに成長していた。西本監督は就任2年目に、不動の4番打者だった土井正博外野手を太平洋に放出し、チーム内に危機感を募らせると、容赦ない鉄拳制裁に妥協を許さない練習を課した。

 同じプロでも阪急と比べれば“ユルかった”近鉄ナインは、当初西本監督に厳しさを通り越して、恐れさえ抱いたが、後期優勝した75年はその中から佐々木恭介外野手や石渡茂遊撃手らが台頭。捕手も梨田昌孝と有田修三が目の色を変えてレギュラー争いをするなど、競争が激化。ぬるま湯に浸かったようなチームは、それから4年後にパ・リーグを制覇。2年連続して日本シリーズに進んだ。

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