日めくりプロ野球 2011年10月

【10月13日】1981年(昭56) 2年連続“優勝”ながら…ロッテ 山内一弘監督 退団決意

[ 2011年10月13日 06:00 ]

80年、ロッテの若きスラッガー、落合(左)に指導する山内一弘監督
Photo By スポニチ

 【日本ハム8―4ロッテ】2死走者なし。日本ハムのリリーフエース、江夏豊投手のストレートにバットが出たロッテの代打、江島巧外野手の打球は力のない中飛に。捕球シーンを見る前に、三塁側ベンチのロッテ・山内一弘監督は脱兎の如く、ロッカールームへと消えた。

 パ・リーグのプレーオフ第4戦。前期優勝のロッテは後期優勝の日本ハムの先制攻撃に防戦一方の末、4点差で敗れた。対戦成績1勝3敗1引き分けで、日本ハムが勝ち、巨人との日本シリーズに臨むことになった。

 80年も前期優勝の山内ロッテは近鉄に敗れ、81年は日本ハムにやられ2年連続プレーオフ敗退。無念の表情というより、怒りにも似た感情が山内監督にはこみ上げてきた。報道陣の前では「選手はよくやってくれた。来年こそ日本一を」と“模範回答”の談話を残したが、親しい記者には本音を漏らしていた。

 「もうやってられん。こんなバカがいないと、球団も本気になってくれんやろ」。山内監督の本心は監督辞任だった。

 就任3年で前期優勝2度の成績。短期決戦に弱いというレッテルが貼られても仕方がない、プレーオフでの続けざまの敗退だったが、ロッテフロントは早々と監督留任を決めていた。しかし、指揮官は日本シリーズに出ることができなかった責任をとる、というのではなく、本気でチームを常勝軍団にしようとしない、球団の姿勢に抗議をする意味で退団という選択をしたのだった。

 72年のシーズン終了後、東京球場が閉鎖されて以来、本拠地を持たなかったロッテは78年に大洋が横浜へ移転するのに伴い、川崎球場をフランチャイズとした。しかし、老朽化した施設の改修は進まず、ファームの練習場もひどいものだった。合宿所の整備もままならず、若手選手からは「野球以前の問題」と切実な訴えがなされていた。

 コーチ陣の待遇も他球団より悪かった。目に見える形では年俸が低く抑えられた。そのため、山内監督がこれぞと見込んで連れて来たコーチが次々と他球団へ好条件で引き抜かれていった。

 山内監督は事あるごとに設備、待遇改善を球団に訴えてきた。にもかかわらず、一向に進展が見られない。球団幹部が現場の要求を、重光オーナーに伝えず、握りつぶしているというのが、番記者同士の共通見解でもあった。そのため、山内監督は「仮に優勝しても辞めた方がチームのためになるのではないか」と判断。プレーオフ敗退を機に気持ちを固めた。

 球団は強く慰留したが、山内夫人いわく「一度口にしたら二度と引っ込めない」人だった元祖ミスターオリオンズ。球団もすべての待遇改善を約束したが、それも口約束。書面などに残すことに難色を示した。歩み寄るすべもなく、ロッテは次期監督に元広島の山本一義外野手に決定。大きな改革もなかったロッテ前期も後期も優勝できず、Bクラスに沈んだ。
 

続きを表示

バックナンバー

もっと見る