日めくりプロ野球 2011年8月

【8月27日】1993年(平5) パチョレック シーズン途中退団「ボールが見えない」

[ 2011年8月27日 06:00 ]

阪神時代のパチョレック。大洋時代同様、チャンスに強かった
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 まだ33歳の助っ人が、重大な決断を最終的にしたのは、登録抹消が決まった日の夜だった。

 阪神のジェームス・パチョレック外野手はシーズン途中の退団を決めた。翌28日、球団にその決意を伝えた助っ人に、三好球団社長は「突然のことだったので驚いたが、本人の意志が固く翻意は難しいと判断して、帰国を認めることにした」と退団の申し出を了承した。球団社長の発言どおり、円満退団だった。

 前年の92年、大洋から移籍したパチョレックは打率3割1分1厘、22本塁打、88打点と大活躍。阪神が7年ぶりの優勝に向かってペナントレース最終戦までヤクルトとデッドヒートを展開する劇的なシーズンを送った立役者となった。

 もう一人の助っ人、トーマス・オマリー一塁手とともに、阪神打線を引っ張る核として、93年も期待されたが、開幕から調子が上がらぬまま夏場に。パチョレックといえば、右方向への打球が伸びるという特徴があったが、この年は以前までとらえていた打球がファウルになったり、詰まった凡フライに終わるなど、バッティングに精彩を欠いた。

 来日以来5年連続3割を打っていた男が、退団を決めた日までの成績が2割4分3厘、7本塁打、36打点。規定打席に到達している30人の選手中28位という不振だった。

 大洋時代からあった腰の痛みが悪化したこともスランプの原因だったが、日々熱くバッティング談義を交わしていた同僚のオマリーに漏らした言葉は「ボールが見えない」だった。

 打撃練習では快音を飛ばしたパチョレックだが、いざ試合になるとバットの芯にボールが当たることが少なくなった。打撃投手のいい頃合のボールは打てても、実戦でのボールとなるとついていけなかった。いわゆる「動体視力の衰え」が顕著になったことが原因だった。

 阪神は8月中旬に編成部のスタッフが渡米し、新外国人の調査に着手。その動きを察知したパチョレックは、球団から戦力外通告を受ける前に、自ら身を引くという選択肢を選んだ。「日本で野球のキャリアを終える」と宣言してプレーし続け、首位打者のタイトルまで獲得した男のそれがプライドだった。

 大洋の主力打者として4年活躍したが、91年の巨人戦で桑田真澄投手から左手甲に死球を受け亀裂骨折。戦線を一時離脱し、打率も落ち、長打も減ったことから、球団は見切りをつけ、新外国人獲得を模索。これにパチョレックは納得せず、退団を申し出ると、情報をつかんだ阪神が1500万円の譲渡金で獲得した。背番号は日本人が嫌う「42」を選んだ。その心はパチョレックいわく、「4打数2安打の意味さ」。大洋戦での殊勲打は際立って多く、物静かな男の闘志をファンは感じ取っていた。

 帰国後は、母校の高校のコーチを務め、04年4月6日の横浜―阪神1回戦(横浜)の始球式に登場。11年ぶりの来日に「両チームOBであったことは僕の生涯の誇り」と話し、ファンを喜ばせた。
 

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