日めくりプロ野球 2011年8月

【8月24日】1939年(昭14) フィリピン出身の強打者、リベラ 巨人軍史上初の満塁本塁打

[ 2011年8月24日 06:00 ]

 【巨人4―1金鯱】戦前の三冠王、中島治康外野手でもなければ、“打撃の神様”川上哲治でもなかった。巨人の球団史上初の満塁本塁打を記録したのは外国人選手だった。

 後楽園球場での金鯱8回戦、巨人の5番アチラノ・リベラ中堅手は8回、1死満塁で中山正喜投手から左中間スタンドに飛び込む一発を放った。職業野球が始まった1936年(昭11)9月23日、甲子園で名古屋軍の岩田次男内野手が金鯱の内藤卓三投手から打って以来、通算21本目の満塁本塁打だった。巨人はグランドスラム1号が出てから、約3年かかっての初満塁弾。数々の偉大な記録を残してきた巨人にとって、これは珍しく遅い記録である。

 39年5月から巨人に加わった“助っ人”リベラは、フィリピンのマニラ税関に勤め、野球部の主将兼4番一塁手だった。巨人は1月から2月にかけ、野球のアジア普及を目指し、フィリピンへ水原茂主将を中心に12人の選手で遠征。現地で9試合を戦い、7勝2敗で帰国したが、ヴィクトル・スタルヒン投手から3安打を放ったリベラの活躍は目を引いた。

 巨人は前年の38年、タイガースに最後の年度優勝決勝戦で敗れ、2年連続王座を奪われていた。1シーズン制となったこの年、優勝への打線強化策としてリベラの獲得を巨人は検討。当初、来日を拒んでいたリベラだが「日本の野球を学び、フィリピンの野球技術向上のためになるのなら」と、1シーズンの契約でシーズン途中から入団した。

 すでに30歳と当時としては超が付くベテラン選手の年齢だったが、主に6番を打ち、76試合で2割6分8厘で6本塁打、42打点をマークした。本塁打の数は4番の中島と同数でチーム最多、打撃成績は15位とその実力を十分発揮した。

 東京・九段のアパートに夫人とともに住み、後楽園で試合のある時はブラブラと徒歩で散歩気分のまま球場に通い、試合が終わると川上ら若手選手とも交流。日本での短い滞在期間はリベラにとっても巨人の選手にも忘れがたいものになった。

 帰国したリベラに悲劇が襲ったのは、1945年。太平洋戦争末期のフィリピンで、リベラは日本軍と戦い戦死した。米軍に協力する義勇軍に参加し、45年2月10日にマニラで亡くなったとされる。

 それから22年後の1967年、リベラの遺児となる2人の娘がユニバーシアード東京大会にバレーボールの選手として来日。その話を耳にした、巨人の川上監督は「世話になったリベラさんへのお礼がしたい」と、公式戦中にもかかわらず、宿舎を訪ね娘と対面。試合の合い間に、夫人に頼んで東京見物に誘い、父がかつて満塁本塁打を放った後楽園球場にも招待した。

 「リベラさんが戦争で命を落としたと聞いてからずっと気にしていた。短い間だったが、一緒にプレーし、野球に対する情熱は日本人以上だったことを思うと、今でも胸が熱くなる。偶然にも娘さんに会えて、多少なりとも恩返しができたと思うと感慨無量だ」と川上監督。2人の娘はその後、米国で暮らしている。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る