日めくりプロ野球 2011年8月

【8月4日】1964年(昭39) 3年で帰るはずが…“チコ”バルボン 10年目の大台

[ 2011年8月4日 06:00 ]

 【南海11―8阪急】真夏の首位攻防戦の中で“灰色”と呼ばれた時代から阪急(現、オリックス)を支え続けた男がパ・リーグ初の記録を打ち立てた。

 阪急のロベルト・バルボン三塁手は西宮球場での南海20回戦の5回、ジョー・スタンカ投手から中前打を放ち、通算1000安打を達成した。「打ったのはストレート。ホンマ、嬉しいわ。初安打も南海戦やったし、なんか縁があるんや、ホークスとは」。55年(昭30)にキューバから来日して10年目。チームに溶け込んだ助っ人は、流暢な関西弁を交えて感慨深げに話した。

 試合は打撃戦の末に阪急が敗れた上に、個人記録などあまり取り上げられない時代。翌日の新聞には試合の詳細に触れた記事は多かったが、ブレーブス一筋の外国人選手が、パ・リーグの外国人選手としては初、両リーグでも2人目の1000安打であることにスペースを割いた新聞はほとんどなかった。

 17歳で米国に渡り、マイナーリーグで腕を磨いた後来日。今でも忘れない2月18日。その日、生まれて初めて雪を見た。半そでシャツ1枚でやって来たバルボンも無謀だったが、阪急入りを橋渡ししたエージェントも無責任だった。「日本は温かい国。キューバと気候はあまり変わらない」。20歳の青年はその言葉を鵜呑みにして、割と気楽な気持ちで、プロペラ機を何度も乗り継いで東洋の島国に降り立った。

 雪以上に困ったのが言葉と食事。バルボンの故郷はスペイン語。米国にいた時、多少の英語は使えるようになったが、日本語なんて全く分からない。今のように通訳がいて、助っ人には至れり尽くせりということもなかった。日本食は口に合わず、唯一食べられたのがチキンライス。来る日も来る日も食べ続けた。

 1年目に163安打、49盗塁、打率2割8分の成績で1番に定着。生活習慣も食事も言葉もまるで違う国だったが、野球に関しては水が合った。「とりあえず3年はやってみよう。金を貯めてキューバに帰ろう」。そうやって頑張っているうちに、とんでもないことが起きた。母国キューバで革命が起こり、1度帰国すれば2度と自由主義国には行くことができないことになった。

 バルボンは悩んだ末に野球を選んだ。「最初は出稼ぎのつもりやったけど、ここで生きていくって覚悟が決まったんや」。革命が起きた59年、バルボンは2年連続盗塁王に。翌60年も同タイトルを獲得。Bクラスが定位置の阪急の中で、投手の梶本隆夫と並び、野手のチームの顔となっていた。

 西宮球場近くに住み、試合のある日は自転車通勤。チームで1、2番コンビを組んだ、河野旭輝外野手が細い身体から何気なくつけたニックネーム“チコ”が浸透し、ファンは親しみを込めて話しかけた。気さくに応じたバルボンの日本語(関西弁)上達の極意は、このおしゃべりにあった。

 日本人の妻をもらい、65年に近鉄に移籍し、同年現役を引退。神戸でステーキ店を経営した後、上田利治監督に請われ阪急のコーチに復帰した。75年、ベネズエラからやって来た、スペイン語を話すボビー・マルカーノ二塁手の通訳に。同時期に入団したバーニー・ウイリアムス外野手には英語の通訳を買って出た。この2人が阪急の3年連続日本一に貢献したが、その裏には私生活の面で心配をさせなかったバルボンの存在があった。

 その後も球団職員なとで阪急、オリックスとかかわり続けた。キューバに一時帰国できたのは、革命から30年後の88年。広島がキューバの野球を視察する際に、特別通訳として同行。声をかけたのは、広島・山本浩二新監督だった。
 

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