【センバツの記憶1979年】“神様”も衝撃!「ドカベン香川」人気漫画のヒーローが早春の甲子園に現れた

[ 2022年3月16日 19:51 ]

1979年、浪商―倉敷商の8回一死、香川伸行は左中間にソロホーマーを放つ(第51回選抜高校野球大会)
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 1979年の第51回選抜高等学校野球大会。3日目の第2試合、大阪の古豪・浪商高校(現大体大浪商)は愛知高校と対戦した。8回、浪商の4番・香川伸行捕手は中堅左へ弾丸ライナーのホームランを打ち込んだ。1メートル70、95キロ。愛称は「ドカベン」。水島新司氏が1972年から週刊少年チャンピオン(秋田書店)で連載する野球漫画の主人公のニックネームだ。転がるようにダイヤモンドを回るユーモラス名姿で一躍人気者となった。準決勝ではセンバツ2号。イケメンエース・牛島和彦(スポニチ評論家)との黄金バッテリーで快進撃。強肩・強打で実力も兼ね備えた「漫画アイドル」は本家ドカベン同様、甲子園の決勝戦に進出した。夏の3試合連続ホームランへと続く「ドカベン香川」ストーリーは今も大甲子園に深く刻まれている。2014年2月、生前の香川氏が笑顔で語った「春の記憶」スポニチアーカイブスの再録をお楽しみください。

 1979年3月29日、センバツ1回戦の8回、浪商の4番・香川伸行が4度目の打席に入った。5球目の低め直球。フルスイングすると打球はバックスクリーン左へライナーで飛び込んだ。古豪復活を願ってスタンドを埋め尽くしたファンは驚き、そしてほほえんだ。ゴムまりが転がるようにダイヤモンドを回る姿はまさに…。ニューヒーロー「ドカベン」が全国の野球ファンに認知された瞬間だった。

 水島新司氏が描く野球漫画「ドカベン」の連載が始まったのは1972年4月、香川が小学校5年生のときだ。中学校は強豪といわれ、浪商高校の系列でもある大阪体育大学付属中に進学した。

 「小学校でも中学校でも“ドカベン”て呼ばれたことはなかった。ボクは漫画を全く見ていないんです。ドカベンというのが“大きな弁当”というのは分かっていた。それ(主人公の山田太郎)が柔道やって、野球やってとかいうんは全く知らんかった。あの頃は漫画というより本読む自体が好きじゃなかったんで全く読まへんかった。ドカベンを目にした覚えがないんです」

 中学3年の大阪府中学校野球大会。準々決勝で後にバッテリーを組む牛島和彦がいる大阪・大東市立四条中学と対戦する。試合は延長13回、大体大付が勝つのだが、同大会の2回戦で完全試合を演じていた牛島の好投が香川の目に焼き付いていた。高校進学が迫っていた。香川は硬式の少年野球チーム「西成ハンターズ」の縁もあり、奈良の天理高校の練習を見学していた。

 「奈良って校数が少ないじゃないですか。甲子園出やすいなと思ったわけ。自分では天理に行くつもり。でも…」

 中学大会の活躍で強豪校からの勧誘が増えた牛島も進路で迷っていた。浪商関係者との食事会。夢のような出会いがあった。

 「浪商から強くしたい、来ないかという話があって。高田さんがきた。そこで牛島くん、浪商でやってくれないか。入ってくれという話で。もう時効やと高田さんもいってますけど」(牛島氏)

 「高田さん」とは高田繁氏。1961年浪商の夏甲子園優勝メンバーでプロ野球巨人軍V9戦士。牛島の中学3年当時は巨人の「三塁手」としてダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)も獲得している。

 牛島が「雲の上の人」の言葉で浪商進学を決断した直後、香川は中学校の教師にこう伝えられている。

 「浪商は尾崎さんで優勝して、ちょうどボクらが生まれた昭和36年から夏の大会に出てないから。とにかく夏に出てくれ、と。浪商の付属やから。牛島くるから浪商に上がってくれっていわれて決めた」

 浪華商時代も含め春夏4度全国制覇をしていた当時の浪商だったが、夏は尾崎行雄を擁して優勝した61年から甲子園に手が届かなかった。浪商OBでもあり洲本高校(兵庫)で53年春優勝している広瀬吉治監督を中心に3年計画を立案。その目玉が「牛島―香川」のバッテリーだった。香川、牛島に山本昭良(後に南海)を加えた1年生トリオは入学直後からレギュラー定着。5回戦で八尾に敗退した夏の大阪大会前から地元メディアに香川の存在が少しずつ知られるようになり「ドカベン」と表現されることもあった。

 それでも「ドカベンは意識していなかった」という香川に衝撃的な出来事があった。

 「1年生の夏ころやったかな。水島先生がひょこっと(大阪西成の)家に来て。おれは学校行ってるやないですか。お母ちゃん(サダ子さん)も最初は誰か分からんかったっていうとった。先生が“育ての親です”といいはって。それで分かったと。先生もウチの近くに住んでいたことがあって。でもボクはその時は会うてないんです」

 夏休みが明け、浪商は実りの秋を迎えた。近畿大会に進出。準決勝で翌年の夏日本一に輝くPL学園(大阪)を撃破。決勝は村野工(兵庫)に敗れたが翌春のセンバツ出場を決定的なものにした。

 センバツ本大会。78年3月28日、香川は1回戦、高松商(香川)戦を前に甲子園に隣接する甲陽学院での練習中“育ての親”に声をかけられた。

 「ドカベンと言われだしてから、先生の顔は新聞とかで知っとった。そのとき初めてですかね。会うたんは。何と言われたかは覚えてへんけど」

 当時のメディアではこの出会いはほとんど報じられていない。「ドカベン」の活字も小さく掲載されているだけ。浪商は高松商に初戦敗退。香川は2打数1安打2四球に終わった。ドカベンの存在は全国に広まることなく初めての春は過ぎていった。

 2年生の夏は大阪大会4回戦で初芝(現初芝立命館)に惜敗。チーム最上級生となった9月、香川は主将として大阪府秋季大会に臨んだ。もう負けられない。だが不運が香川を襲った。大阪大会4強リーグ戦で右手中指を骨折。センバツ出場をかけた近畿大会出場は絶望的と思われた。

 「京都の病院行ったら複雑骨折。すぐ手術ですよ。結局、近畿大会準決勝、決勝だけ。ピンチヒッターで。チームは控えのキャッチャーで優勝した。でもそれがなかったらプロに行ってないと思う。それまでは自分のチームで自分が守って打って勝つ。天狗になっとった。骨折で、もう甲子園行かれへんとあきらめとった。それでも控えのキャッチャーで勝ち進んでいく。だんだん寂しくなっていく。それまでは満塁ホームランを一人で打てると思っていた。でも満塁ホームランは一人で打たれへんと思った。野球はチームワークや。それまで思ったこともなかった。貴重な経験になった」

 1979年3月27日、香川は「チームのみんなに連れて行ってもらった」というセンバツが開幕した。3日目の初戦、愛知戦で放ったホームランはネット裏で観戦していた元巨人監督で“打撃の神様”といわれた川上哲治氏が「プロでもめったにお目にかかれない打球」と絶賛した衝撃の一打だった。劇画から飛び出してきたヒーロー「ドカベン香川」旋風が夢舞台を吹き抜けた。

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