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【内田雅也の追球】「どこでも練習」の青春 いつの日か努力が報われることを祈って

[ 2022年1月9日 08:00 ]

1939年正月、熊野那智大社で引いたおみくじ「大吉」に喜ぶ海草中の嶋清一(左)と古角俊郎=古角氏遺族提供=
Photo By 提供写真

 「不世出の左腕」と呼ばれた嶋清一(戦死=野球殿堂入り)は海草中(現和歌山・向陽高)時代、和歌山市内の自宅からバス停までシャドーピッチングをしながら歩いた。途中、歩兵第61連隊の正門前を通る約2キロの道である。

 <ぐるぐるとまわる左腕、呼吸を整える音、そしてビュンという腕の振り下ろし。1球ごとプレートを踏む――>と山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)にある。

 海草中、明大、そして海軍とともに過ごした親友、古角(こすみ)俊郎から聞いた話だ。8日は古角の命日だった。2013年、91歳で没した。

 途中、一塁手の加茂国造の自宅があった。豆腐店で大きなガラス戸があった。嶋は自分の姿を映し出し、またシャドーピッチングをした。<長谷川(信義)監督のご指導を肝に銘ぜよ、自分は何処(どこ)までもプレートを死守するのだ>と書いた嶋の日記が残る。

 野球にかけた青春の努力が1939(昭和14)年、夏の甲子園大会で全5試合完封、準決勝、決勝ノーヒットノーランという偉業につながった。学徒出陣で出征。45年3月29日、乗り込んだ海防艦が米軍の魚雷攻撃を受け、ベトナム沖に沈んだ。24歳だった。
 嶋のシャドーピッチングの逸話はプロ野球選手にも通じている。

 80年代、中日の主力投手だった左腕・都裕次郎には「どこでもピッチング」の逸話がある。革靴の左足親指部分が常にはげていたそうだ。ベルトに手ぬぐいをさげ、いつでもシャドーピッチングできるようにしていた。中日公式ファンクラブ事務局長・館林誠が中日公式サイト内のコラム『閑話球題』に書いていた。

 中日新監督・立浪和義が秋季キャンプ打ち上げの際に「力の差がつくのが、この2カ月」と訓示した話もある。オフシーズンの重要性である。

 阪神の選手たちの自主トレの便りが全国各地から届いてくる。かつては自主トレもほとんど行わず、2月1日のキャンプイン初日に息をあげる選手が散見された。選手たちは本当にまじめによく練習している。大リーグの隠語でいうバンケット・リーガー(宴会選手)はもう伝説でしかない。

 常に野球を考え、どこでも練習をする。ガラス戸や道端で投球する者もいるかもしれない。そんな努力が報われることを祈っている。 =敬称略=
 (編集委員)

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