【内田雅也の追球】創設10年、阪神に根づいた若林忠志の精神

[ 2021年12月8日 08:00 ]

少年を指導する阪神・若林忠志(1952年ごろ)

 2年ぶりとなる阪神・若林忠志賞の表彰を若林の娘や息子たちは喜んでいた。

 長女・津上麗子(84)は第10回を迎えたことに「もう10回目になるのですね! 月日の速さに驚くばかりです。この社会貢献活動が継続されていることがうれしく、感動いたしております」とメールが届いた。

 昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で賞の選定・表彰は見送られた。「該当者なし」ではない。球団は「コロナ禍で多くの選手が社会貢献活動を行っているなか、特定の個人や団体を選定しづらいため」と理由を示していた。当時球団常務だった清水奨は「逆に表彰に該当する選手は多くいた」と話していた。

 今回受賞した岩貞祐太はもちろん、原口文仁は医療ケア施設への寄付、青柳晃洋は故郷・横浜の小学校や保育園への絵本寄贈……など、チーム内で社会貢献・慈善活動は広がりをみせている。

 若林忠志賞の創設は10年前の2011年だった。2013年ドラフト1位の岩貞は入団時すでに賞は存在していた。7日の表彰式に出た後、岩貞は話した。「入団する時、若林忠志賞というのがあると聞いていました。そんな方がいたんだと功績を調べたりしていましたから」。創設10年、若林の精神はチームに根づいていた。

 「父が目指していたメジャーリーグの奉仕の精神が浸透していることをうれしく思います」と米国滞在中の次男・忠晴(82)からのメールにあった。

 きょうは日米開戦の日である。1941(昭和16)年12月8日、若林は西宮・甲子園口の自宅にいて、ラジオで戦争突入を聴いた。同年7月、日米二重国籍から米国籍を離脱、日本人となる決断をしていた。ハワイ移民の子としてオアフ島で生まれ育ち、大リーガーのグラウンド外での姿勢を知っていた。だから、戦後、慈善活動に尽くし、プロ野球選手としてのあり方を示したのだ。

 作家・坂口安吾が雑誌『月刊ベースボール・マガジン』48年8月号で<日本野球はプロに非(あら)ず。若林忠志だけが腹の底からの野球職人>と書いた理由も、その姿勢にあったのだろう。

 次女・柿崎靖子(80)が「父は12月は全国各地を駆け回り、ほとんど家にいませんでした」と話す。「父は“おまえたちはいい。世の中には親がいない子や恵まれない子が多くいるんだ”と話していました」

 プロならば、オフシーズンの今こそ大切な時なのだろう。 =敬称略= (編集委員)

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