中日・木下雄介投手を悼む 森繁和氏「残念だし、無念でならない」16年監督時代育成1位で指名

[ 2021年8月7日 05:30 ]

2018年2月2日 ブルペンで森監督と木下雄介さん(右)
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 中日は6日、木下雄介(きのした・ゆうすけ)投手が3日に愛知県内で死去したと発表した。27歳だった。大阪市出身。死因や葬儀などは明らかにされていない。現役選手の突然の訃報に球界には衝撃が走った。16年育成ドラフト1位で入団した当時の監督だった森繁和氏(66=スポニチ本紙評論家)が、高く評価していた右腕をしのんだ。

 残念だし、無念でならない。私が監督を辞めてからも、評論家として球場で木下に会うと笑顔であいさつに来てくれた。そんな彼が亡くなってしまうなんて…。いつか必ず墓参りをして会いにいくからな。心から冥福を祈りたい。

 私が中日監督だった16年ドラフト会議。スカウトから「独立リーグの投手を獲りたい」と言われた。それが木下だった。映像も見たが直球が非常に魅力的。聞けば中退をしているが私の駒大の後輩だという。もちろんひいきをするわけではないが、その後もずっと気に掛けていたし、活躍を楽しみにしていた。

 入団発表には夫人と、生まれたばかりの娘さんが同席した。奥さんが子供を抱っこしての会見。非常に印象に残っている。「子供が生まれたばかり。稼がないとな。いいプロ野球選手になれよ」。そんなふうに声を掛けたら、木下は「頑張ります!」と言っていた。1年目の17年は家族を大阪の実家に残していたが、支配下登録された18年には名古屋に呼び寄せた。

 木下のお父さんが交通事故で亡くなったのは19年7月。シーズン中で彼は2軍にいて、中日のシニアディレクターだった私は、すぐ大阪に帰るように言った。しかし本人は「親父は“仕事は絶対に休むな”と言っていたんです。だから試合に出てから戻ります」。確かウエスタン・リーグの試合に登板してから、お父さんの元へ向かったはずだ。そんな強い一面があった。

 故障も多く、苦労を重ねてきた。ただ、普段はそんなことは表に出さない男だった。どちらかといえば無口で、真面目なおとなしいイメージ。ただマウンドにいけば1球ごとに叫び、闘志を前面に出していた。そんな姿はもう見られない。本当に残念だ。(スポニチ本紙評論家)

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2021年8月7日のニュース