【内田雅也の追球】「4番サード」の運命 40年前の原―中畑、いまの佐藤輝―大山

[ 2021年5月7日 08:00 ]

巨人・中畑は原の三ゴロで二塁へ併殺阻止のスライディング。阪神二塁手・岡田と交錯した(1981年5月4日、後楽園)。中畑は左肩を負傷、代わって原が三塁に入った。
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 原辰徳(現巨人監督)は巨人に入団した当初、二塁を守っていた。東海大相模―東海大と親しんだ三塁には中畑清(現本紙評論家)がいた。駒大からプロ入り5年目、脂が乗っていた。ちょうど40年前の話である。

 名参謀と呼ばれたヘッドコーチ・牧野茂は1981(昭和56)年、宮崎キャンプ2日目、2月2日の日記に<原の二塁コンバートを自分自身にて決定せり。監督に進言するつもり>と記した。妻・竹代が編んだ『牧野茂日記』(ベースボール・マガジン社)にある。4球団競合で引き当てた黄金ルーキーのポジションに注目が集まっていた。

 進言を監督・藤田元司も受けいれ、3番三塁・中畑、6番二塁・原で開幕を迎えた。

 運命の試合は5月4日の阪神戦(後楽園)だった。ロイ・ホワイトの不振ですでに中畑は4番を打っていた。

 4回裏1死一塁。原の三ゴロで一塁走者・中畑は併殺崩しのスライディング。二塁手・岡田彰布の下敷きになり、左肩を脱臼した。5回表、選手交代を告げる場内アナウンスが流れた。「中畑に代わりましてセカンド・篠塚、セカンドの原がサードに回ります」

 治療中、ベンチ裏で聞いた大歓声を中畑は忘れない。<激痛にとどめを刺す大音量>と半生を振り返った本紙『我が道』に記している。<観念した。ファンがサード原を望んでいる。もう三塁には戻れないと思った>。

 実際、復帰した後も原が三塁、中畑は経験のない一塁に回った。篠塚利夫が二塁に定着。巨人黄金期が訪れたのだった。
 ――と、古い話を書いたのは、今の阪神と状況が似ているからである。

 近大で三塁を守っていた大物新人・佐藤輝明が入ったが、三塁には4番を打つ大山悠輔がいる。佐藤輝は6番・右翼で開幕を迎え、これまでやってきた。

 ところが、その大山が負傷(背中の張り)で登録抹消となった。時期も同じゴールデンウイーク明けである。

 きょう7日から三塁には佐藤輝が入る。監督・矢野燿大が明かした。

 では今度、大山が復帰してきた時、どうなるだろうか。

 当時の中畑は開幕前の3月、元監督で重鎮の川上哲治から直々に東京・自由が丘の中華料理店に招かれ、「骨を折ってまとめてくれないか」と依頼されていた。チームリーダーだった。

 <いま思い返せば、運命のケガだった>と中畑は記している。骨折ではないが、<川上さんに言われたように、私が骨を折ってチームをまとめたんだ>。

 チーム全体を見渡し、<実際、サードに入った原には躍動感があった>とみていた。一塁転向を受けいれ、翌年から7年連続ゴールデングラブ賞を獲った。原は三塁手、4番打者に育った。

 大山もプロ5年目で、実績もある4番打者、そして主将である。当時の中畑と全く似た立場にある。当時の巨人首脳陣と同様に十分敬意を払ったうえで思う。ひょっとすると、いまが運命のときなのかもしれない。=敬称略=(編集委員)

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