【内田雅也の追球】喜ばしい「後方けん制」刺殺 攻撃的な守備で逃げ切った阪神

[ 2021年3月18日 08:00 ]

オープン戦   阪神5―3西武 ( 2021年3月17日    メットライフドーム )

<オープン戦 西・神>6回、一塁走者・西川は西純からのけん制球でタッチアウト(撮影・大森 寛明)
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 後にV9(9年連続日本一)を成し遂げる巨人監督・川上哲治は就任直後の1960(昭和35)年12月、岐阜県の正眼寺へ座禅に出向いた。

 現役引退直後の58年オフ、「プロ野球生みの親」で読売新聞社主(当時)の正力松太郎から勧められ、老師・梶浦逸外と出会った。以来毎年、参禅していた。

 監督に就いた川上が持参したのはアル・カンパニスの『ドジャースの戦法』(ベースボール・マガジン社)だった。大リーグ・ドジャースの作戦や練習法を説いた指南書で、川上は「一年目からこのチームプレーを取り入れていこう」と決意したという。
 川上巨人の名参謀だった牧野茂の没後、妻・竹代が編んだ『牧野茂日記』(ベースボール・マガジン社)に、川上自身が寄稿している。

 監督1年目の61年2月、宮崎キャンプで報道陣を閉め出し、取材規制を行った。冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえ「哲のカーテン」と呼ばれた。秘密練習で行ったのが先の本で学んだ連携やサインプレーである。

 ただ『ドジャースの戦法』は55年4月から57年4月まで雑誌『月刊ベースボールマガジン』で連載され、57年7月には書籍発行。既に野球教本として広まっていた。

 問題は実践である。当時三塁手の長嶋茂雄は「マニュアルを読んで分かったというのと、読み込んで練習で鍛え、実行したのとは全く違う」と語っている。息を合わせる必要などコツがいる。

 前置きが長くなった。阪神は17日の西武戦(メットライフ)で、見事なけん制刺殺を決めた。6回裏2死一、二塁で一塁走者を投手からのけん制で刺したのだ。

 2番手・西純矢の登板直後。2失点し、なお走者2人を背負うピンチで脱するけん制だった。

 サインプレーである。一、二塁でベースから離れて守る一塁手が一塁に入った瞬間に投手が送球する。投手は全く一塁方向を見ないが“ある場所”から合図が出て素早く投げるわけだ。

 沖縄・宜野座でのキャンプで繰り返し練習していた。何も新しいプレーではない。阪神のコーチも選手も知っており、従来も行っていた。

 ただ、選手の振る舞い方やタイミングなどでコツがいる。恐らく、キャンプで臨時コーチだった川相昌弘が、そのコツが伝えたのだろう。

 情報化は進み、キャンプの練習から他球団スコアラーが偵察の目を光らせる。本当に隠したいサインプレーを除き、もう「カーテン」の時代ではなくなっている。

 この日、阪神が見せたのは、2人以上の走者で後ろの走者を狙うため「後方けん制」と呼ぶ。川相は著書『ベースボール・インテリジェンス』(カンゼン)で<巨人の得意技>と紹介していた。<ベースの後ろにいるファーストが、ランナーの後ろからするすると入り、けん制でアウトにする><ランナーの視界には見えていないので、タイミングが合ったときには物の見事に成功する>。

 巨人一塁手だったホセ・ロペスがうまく、移籍先のDeNAでも行っていた。川相は<キープレーヤーの移籍によって、他球団に広まっていくのも面白いことではないだろうか>と書いている。
 先に書いた合図発信の“ある場所”もキャンプを見て分かった。ここでは書かないでおく。

 年間幾度もあるプレーではないが、練習の成果が出たのだ。実に喜ばしい。指導した川相も喜んでいることだろう。

 また、2点差と詰め寄られた9回裏、無死一、二塁では通称「ブルドッグ」も使って相手の送りバントを失敗させた。一、三塁手の猛烈なチャージで打者に重圧を与え、バントは3本ともファウル(三振)。走者の進塁を許さなかった。

 オープン戦とはいえ、本番が近く、相手の西武監督・辻発彦も勝負を意識して臨むとしていた。阪神とて同じだろう。

 ならば、2点差で逃げ切れた、勝ちきった。それも、近年、守備の強化が課題とされる阪神が「後方けん制」や「ブルドッグ」という、攻撃的な守備でもぎ取った。意義深い勝利である。=敬称略=(編集委員)

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