【内田雅也の追球】「島守」に学ぶ「生きろ」

[ 2021年2月25日 08:00 ]

奥武山公園内に建つ島田叡氏顕彰碑(左)と平和祈念公園に建つ「島守の塔」
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 那覇・奥武山公園内に建つ「島田叡氏顕彰碑」を訪ねた。十数年、キャンプ取材の沖縄滞在中、何度も拝礼している。

 平和で野球ができる、そして野球を見られる幸せをかみしめる。新型コロナウイルスの感染拡大で、かつての日常が恋しい今は余計である。

 その碑は巨人がキャンプ地に建つ。隣は練習で使うサブグラウンドの「兵庫・沖縄友愛グラウンド」だ。この日は休日だったが、ふだんはメイン球場の沖縄セルラースタジアム那覇から球音も響いてくる所にある。

 沖縄県民で島田叡(あきら)の名を知らない者はいない。「小学校で習うんです」と宿泊中のペンション・オーナーが話していた。沖縄でキャンプを張るプロ野球やアマ野球、多くの野球人は知っておきたい。

 当欄でも何度か取り上げた。改めて書くと、島田叡(あきら)は戦中最後の沖縄県知事である。

 「島守」(しまもり)と呼ばれた。大阪府内政部長だった島田は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年1月31日、沖縄県知事として赴任する。すでに前年10月10日に米軍の大空襲で那覇は壊滅的打撃を受け、行政はまひしていた。当時の知事は官選。辞令を受けた際、「オレは死にとうないから、誰かが行って死んでくれとはよう言わん」と、家族を残して沖縄の地に降り立った。

 軍が捕虜になるより自決や玉砕というなか、住民に疎開を勧め、部下にも「生きろ」と説いた。10万人以上の命を救ったとされる。終戦6年目の51年に県民の寄付で摩文仁の丘に島守の塔が建設されている。

 島田を描いた映画が公開となる。来月に『生きろ』、来年夏に『島守の塔』と相次ぐ。

 島田は野球人だった。神戸・須磨の出身。顕彰碑は島田の故郷を向き、「友愛グラウンド」は兵庫・沖縄の交流を意味する。神戸二中(現兵庫高)、三高(現京大教養部)、帝大(現東大)で俊足好打の外野手だった。

 「劣勢と知りつつも、知恵をしぼり、あくまで全力を傾け、ベストを尽くす。これがスポーツ精神だ」と、三高時代の旧友の言葉が顕彰碑に添えられた「球魂」の碑に刻まれている。詳細は田村洋三『沖縄の島守』(中公文庫)、門田隆将『敗れても敗れても』(中央公論新社)に詳しい。

 「生きろ」の精神か。野球も人生も同じだ。こんな世だから思う。生きるのだ。  =敬称略= (編集委員)

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