桑田真澄氏が巨人入閣 コーチとして15年ぶり復帰、投手陣強化へ豊富な知識と経験伝える

[ 2021年1月12日 05:31 ]

昨年2月、巨人の宮崎キャンプで投手陣のブルペン投球を見守る(右から)原監督、桑田氏、阿部2軍監督
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 巨人の今季コーチングスタッフに、OBの桑田真澄氏(52)が入閣することが11日、分かった。近日中にも球団から発表される。プロ入りから背番号18を背負い、巨人のエースとして活躍。21年間在籍し、通算173勝を挙げたレジェンドが投手陣の強化に着手する。桑田氏にとっては06年オフの退団後初めて、指導者として古巣のユニホームに袖を通すことになる。

 06年11月23日、東京ドーム。米球界挑戦を決めた桑田氏は、ファンフェスタの観衆3万6291人の前で涙の退団セレモニーを行った。うつむき、こみ上げるものをこらえる。

 「21年間、18番を預からせていただいた。本当に感謝を込めてお返ししたいなと思う」。涙の別れから15年――。巨人の黄金期を支えた元エースがコーチとして古巣に戻り、投手部門の強化を図る。

 引退後の11年には、指導者としての将来的展望について「巨人でユニホームを着られるのがベスト」と語っていた。プロ野球の指導経験こそないが解説やアマチュア指導者として活躍。現役時代から頭脳派として知られ、現代の価値観に即した革新的な指導理念は球界に「新風」を吹き込むことになるだろう。

 リーグ2連覇した昨季は日本シリーズでソフトバンクに2年連続で4連敗を喫した。自身は「10・8決戦」と称された94年には、同率首位で並んだ中日との最終戦(ナゴヤ球場)で3本柱の槙原寛己(スポニチ本紙評論家)、斎藤雅樹の後を受けて胴上げ投手になった。大一番で培った経験を、投手陣に伝えていく。

 ポスティングシステムを申請して大リーグ球団と交渉したエース菅野は残留が決まった。だが、近い将来を見据えれば、次代のエース育成はチームとして必須事項だ。昨季、菅野に次ぐ9勝を挙げた戸郷や力強い直球が武器の畠や桜井ら、潜在能力の高い投手は多い。変化球を巧みに操る左腕の田口には、試合中継後のモニター越しのインタビューで指導を行ったこともある。

 引退後は09年に早大大学院でスポーツビジネスを学び、14年には東大大学院の総合文化研究科に合格して投手や野手の動作に関する研究を行うなど知見を深めてきた。指導者としても13年に東大の特別コーチ、16年にはBC信濃の臨時コーチを務めた経験がある。

 95年の右肘じん帯断裂を乗り越え、復活勝利を挙げた97年4月6日のヤクルト戦(東京ドーム)では右肘をプレートに置く儀式をした。大ケガからの復帰に、07年にはパイレーツでのメジャー登板と「生き字引」と言えるほど経験は豊富。古巣に新たな知識を伝え、投手王国を築く。

 ◆桑田 真澄(くわた・ますみ)1968年(昭43)4月1日生まれ、大阪府出身の52歳。PL学園では5季連続で甲子園に出場し優勝2度、準優勝2度。甲子園通算20勝は戦後最多。85年ドラフト1位で巨人入団。2年目の87年に防御率1位、ベストナイン、沢村賞を受賞し、94年にMVPを獲得した。95年に右肘じん帯を断裂。じん帯移植手術を受け、97年に復帰した。ゴールデングラブ賞8度。06年限りで巨人を退団しパイレーツに入団。08年3月に引退した。09年には早大大学院に入学。右投げ右打ち。

 【巨人退団後の桑田氏】
 ▼06年 2軍調整中だった9月23日、球団公式サイトで巨人を退団する意思を表明。11月にメジャー挑戦を表明し、12月にパイレーツと契約。
 ▼07年 6月10日(現地時間)に当時の日本人最年長39歳70日でメジャーデビュー。8月に戦力外通告を受ける。
 ▼08年 1月に再びパイレーツとマイナー契約を結ぶも、3月に構想外となり現役引退を表明。
 ▼10年 前年に入学した早大大学院スポーツ科学研究科を3月に首席で修了。修士論文で最優秀論文賞。
 ▼11年 9月14日に行われた福島県復興支援交流戦で、福島県社会人野球県北選抜を相手に2回無失点。
 ▼13年 1月に東大硬式野球部の特別コーチに就任。
 ▼14年 3月に東大大学院総合文化研究科に合格。
 ▼16年 3月にBC信濃で臨時コーチを務める。
 ▼18年 8月に第100回大会の夏の甲子園で始球式に登場。
 ▼19年 1月に母校のPL学園野球部のOB会長に就任。

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