【内田雅也が行く 猛虎の地】希望をつくる野球場 コロナ後の世界へ、猛虎が示す生き方

[ 2020年12月28日 11:00 ]

(20)甲子園球場

新聞を見せながら田淵幸一(左)を指導する阪神・藤井勇コーチ(1970年)

 特別な1年が暮れようとしている。あと数日となった2020年を振り返るとき、目に浮かぶのは無人の野球場だ。とりわけ、寂しく悲しげな甲子園球場の姿である。

 『猛虎の地』シーズン4最終回は2010、18、19年の過去3シーズン同様、阪神本拠地の甲子園球場で締めくくりたい。連載は通算で節目の100回目にあたる。

 まだ桜のつぼみも固かった早春。選抜高校野球大会の中止が発表される3月11日、日本高校野球連盟・中沢佐伯記念野球会館に向かう前、甲子園球場に立ち寄った。誰もいないグラウンドの土や芝が西日に光っていた。

 本来なら選抜開幕の3月19日は、暖かくよく晴れた野球日和だった。青空が恨めしく『悲しいほどお天気』というユーミンの曲名が浮かんだ。<ずっといっしょに 歩いてゆけるって だれもが 思った>と失恋の歌詞に、甲子園の夢破れた高校球児の無念を思った。

 この時はまだタイガースの選手たちがグラウンドで練習していた。だが事態はさらに悪化し、甲子園に誰もいない時期がしばらく続いた。

 未知の疫病、新型コロナウイルスにおびえ、野球どころではない世の中が訪れたのだった。

 後にプロ野球は3カ月延期で開幕し、無観客、制限付き有観客で日本シリーズまで何とか消化した。だが、あの絶望感が漂った無人の野球場を忘れてはならない。

 <新型コロナウイルスの流行拡大において、あえてポジティブ側面を見出すとしたら何か?>とノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンら世界の知性6人に国際ジャーナリスト・大野和基が『コロナ後の世界』(文春新書)で問いかけている。<それは、私たちに深く考えるきっかけを与えてくれたこと>と全員が答えたそうだ。

 長い自粛期間は、職業キャリアの価値、生きる意味、家族と過ごす時間の大切さ……などを考え直す機会となった。

 野球はどうなのか。コロナの時代、プロ野球にどんな意味があるのか、タイガースは何のために野球をしているのか。そんなことを考えながらの1年だった。

 ヒントはやはり歴史にある。それは、本連載のテーマでもある。

 今年8月29日の広島戦(マツダ)で近本光司が放った右越え本塁打は阪神通算9万本目の節目の安打だった。球団創設85年、壮大な積み重ねを感じる数字である。

 翌30日付の本紙。1万本刻みの区切りの安打を表にし、1本目の安打を掲載している。球団初安打は1936(昭和11)年4月29日、金鯱戦で1回表、藤井勇が放った右前打だと記したのは、わずか1行だがキラキラと光る特ダネである。記録担当が貴重な当時のスコアシートから発見した。

 藤井はプロ野球1号本塁打(同年5月4日・甲子園)として有名だが、阪神1本目の安打も放っていたのだ。それが甲子園球場だった。

 鳥取一中(現鳥取西高)で4番を打ち、夏の甲子園大会で京都商(現京都学園高)・沢村栄治から先制の2点二塁打など3安打を放って破った。阪神入りし、巨人入りした沢村と親交を深め、甲子園や三宮、銀座や新橋でよく遊んだそうだ。

 田淵幸一(本紙評論家)が阪神入り2年目、70年のヘッドコーチだ。単身赴任で独身寮「虎風荘」に滞在していた。藤井に誘われ、夜、屋上でバットを振った。「心のあったかい人だったなあ。一緒に悩んでくれた」

 阪神1本目の安打、1号本塁打を放った先人が見せた、悩みや苦しみを共有する姿勢こそ今の時代に必要なのではないか。閉塞(へいそく)感が漂い、息が詰まるような日々、ファンとともに悩み、前を向きたい。

 そのために希望がいる。「希望学」という研究を続ける東大社会科学研究所教授・玄田有史の『希望のつくり方』(岩波新書)に<希望は与えられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)つくり出すものだ>とある。コロナなどなかった10年前の発行だが、今も通用する。

 ある女性歌手がレコード会社の担当者に「絶望の反対って、何だと思う?」と聞いた。「希望」だと言うと、答えたそうだ。「私は絶望の反対は、ユーモアだと思う」

 宇多田ヒカルの逸話である。ユーモアが生まれる土壌を<他者の痛みに対する共感と想像力><過去の失敗なども潔く語れるところ>とし、「希望に必要なものは何ですか」という問いに、玄田は「結局、希望には遊びが一番大事だと思うんです」と答えている。

 明日への希望が見えづらい世の中である。医療や福祉の充実が重要なのはもちろんだが、遊びがほしい。よりよく生きるために、音楽や映画や文学……と同様に野球もある。プロ野球は、タイガースは希望を見せるためにあると言えるだろう。野球場は、甲子園球場は、人びとが希望をつくる場所である。 =敬称略= (編集委員) =終わり=

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