【内田雅也が行く 猛虎の地】虎の血に「Gの遺伝子」 日本一の「陰の功労者」

[ 2020年12月15日 11:00 ]

(14)立川競輪場

日本一に輝き、立川競輪場2階レストランで祝勝会を行った阪神の選手たち(1985年11月2日)
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 阪神が2リーグ制となって初めて日本一となった1985(昭和60)年11月2日、祝勝会が開かれたのは立川競輪場である。2階特別観覧席にある大食堂だった。

 競輪場とはその前も後にもない異例の場所だ。西武との日本シリーズで阪神が宿泊していた立川市のホテルニュープラザは床全面にじゅうたんが敷かれ、ビールかけには適さない。同ホテル社長・金原信彦が「ここなら思い切って喜びを爆発していただける」と同社が運営する大食堂を紹介したのだった。

 ちなみに競輪が開催となる4日以降に延びた場合は立川飛行場内の空き地にテントを張って行う予定にしていた。

 日本一を決めた西武球場(現メットライフドーム)からパトカーの先導を受け、宿舎に戻り、午後6時半に競輪場に到着した。球団社長・岡崎義人が「思う存分飲んでくれ」、監督・吉田義男が「喜びを体で味わおう」とあいさつして鏡開き。乾杯の音頭を待たずに美酒をかけあった。シーズン中、左足アキレス腱(けん)断裂で離脱した山本和行もユニホームに着替えて加わり、日航機墜落事故で他界した前球団社長・中埜肇の遺影が見守った。

 祝宴には83年限りで現役を引退し、TBS『スポーツデスク』でキャスターを務めていた小林繁が取材に来ていた。川藤幸三は小林を見つけると「何やっとるんじゃ。おまえはタイガースの一員じゃ」と言って、頭にビールをかけた。

 小林は大騒動となった「江川事件」によるトレードで79年2月、阪神に移籍。キャンプ地の高知・安芸はファンであふれ返った。川藤とはロッカーが隣同士だった。

 小林は川藤を「おっさん」と呼んだ。「阪神は巨人に負けていない。バラバラだけど個々の力はすごい。一つにまとまれば勝てる。おっさんがチームをまとめてくれよ」

 同じ話を小林は掛布雅之らにも行っている。もっと厳しく「阪神は歴史があっても伝統がない」とも指摘していた。

 川藤は本紙連載『我が道』で書いている。<コバは勝利を宿命づけられた巨人の組織力を伝えてくれた。当時、阪神は個人の集団で、タイトル保持者が出てもチームとしては勝てなかった。虎の血にGの遺伝子が混じった>。優勝、日本一の陰の功労者というわけだ。

 川藤は競輪場で小林を2次会に誘った。千駄ケ谷の焼き肉店。開会に先立ち、川藤は選手たちに呼びかけた。「今回の優勝にはコバの熱い思い、執念が入っとる。皆、わかっとるよな!」誰もが歓迎した。 =敬称略=(編集委員)

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