【内田雅也が行く 猛虎の地】ビッグカップルが構えた豪邸 絶頂期の藤本勝巳が送った新婚6人暮らし

[ 2020年12月12日 11:00 ]

(12)甲子園三番町

歌手・島倉千代子と婚約発表会見を行った阪神・藤本勝巳(1962年10月25日、東京・新橋の第一ホテル)
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 阪神甲子園駅近くの老舗喫茶店で阪神のオールドファンの方から聞いた。「昔、藤本勝巳と島倉千代子が結婚していたころ、たまに島倉千代子が市場で買い物してるところを見かけたよ。三番町にお屋敷があってね」

 阪神の4番・藤本勝巳と人気歌手・島倉千代子の結婚は相当な話題となった。ヤンキースのジョー・ディマジオと女優マリリン・モンローの結婚にもたとえられた。

 結婚式・披露宴は1963(昭和38)年12月5日、大阪・中之島の新大阪ホテルで開かれた。媒酌人は監督・藤本定義夫妻。「ライバル・ナガシマ」の名で巨人・長嶋茂雄からも祝電が届いた。

 藤本は無名の選手だった。スカウト・青木一三が55年、高校ナンバーワン投手の新宮高・前岡勤也をマークしていた際、和歌山県営向ノ芝球場で見かけたのが南部高の投手・一塁手の藤本だった。契約金は前岡が当時史上最高の700万円、藤本は80万円だったと著書で明かしている。

 ドラフト制があれば、相当下位だったろう。努力でスターへの階段を上ったのだ。2年目57年途中から一塁の定位置を奪い、58年は6番、59年開幕から4番を張りベストナインに選ばれた。天覧試合では一時逆転の2ランを放った。60年は本塁打王、打点王の2冠に輝いた。61年は初の3割、2度目のベストナイン。62年は2リーグ分立後初の優勝に貢献した。

 優勝パレードでは藤本のオープンカーに4歳だった岡田彰布が乗った。岡田の父・勇郎が後見人で、島倉を伴い、大阪・玉造の自宅を訪問している。岡田は今も島倉の歌をほとんど歌える。

 藤本にとって絶頂期にあった62年オフ、10月25日に島倉との婚約を発表した。無口な藤本は「知り合ってから約6年。最初は居留守を使われたりしましたけど……」と電話で口説いたなれそめを説明した。島倉は61年、ファンが投げたテープが両目に当たり、失明の危機にあった。「目が見えなくてもいいから……とプロポーズされ、心が決まりました」と話した。

 冒頭の話にある豪邸は甲子園球場から北へ1・4キロ、西宮市甲子園三番町にあった。当時の新聞には地番まで記されている。市場は甲子園四番町にあった市場だろうか。

 老ファンは「家には6人ぐらい住んでいた」とも言った。新婚で6人暮らしとは驚いた。ジャーナリスト・田勢康弘が島倉を密着取材した『島倉千代子という人生』(新潮文庫)に藤本の母と妹、島倉の付き人と運転手の6人が同居していたとある。<不思議な生活>だった。結婚から3年で別居、4年半で離婚が成立した。=敬称略=(編集委員)

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