【内田雅也が行く 猛虎の地】尾鷲は、夢の尽きないパラダイスでした――別当薫 生涯交流続けた第二の故郷

[ 2020年12月3日 11:00 ]

(3)尾鷲

尾鷲市営野球場に建つ別当薫記念碑と保存会発起人の東良一さん(左)、会長の浜口幸也さん
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 紀伊半島の南東、熊野灘に面した三重県尾鷲市は江戸時代から林業、水産業で栄えた。人口約1万6千人、海と山に囲まれた美しい町だ。

 高台にある尾鷲市営野球場の一角に「別当薫記念碑」が建っている。阪神現役時代の打撃姿勢をかたどった高さ1メートル80の銅像に、球歴を記したプレート、碑名は長嶋茂雄の直筆である。

 1999年4月に別当が他界すると、5月には市民有志が「記念碑を作る会」を立ち上げた。寄付金は目標の500万円を突破し、700万円が集まった。同年11月27日に除幕式としのぶ会が行われた。長男ら遺族、球界から山内一弘、土井正博、三宅秀史らが列席した。長嶋とはともに箱根・仙石原に別荘を持つ縁で交流があり、張本勲(本紙評論家)を通じて揮毫(きごう)を得た。

 碑は「保存会」が定期的に清掃を行い、別当杯争奪の野球大会を開催している。今年は生誕100年にあたり、誕生日の8月23日、会長・浜口幸也(64)ら保存会が花を飾り、地元の野球少年にボールを贈った。

 別当は大阪市生まれ、9人きょうだいの3番目だった。第二上福島尋常小から甲陽中(現甲陽学院高)へ。慶大で43年、出陣学徒壮行の「最後の早慶戦」で4番を務め出征。戦後46年は慶大主将で優勝。卒業後は家業を手伝い、47年、全大阪で都市対抗で準優勝。48年2月、阪神入りした。

 争奪戦だったが、草創期の大打者・景浦将へのあこがれやなじみ深い甲子園への思いから、自ら慶大先輩の球団専務・冨樫興一に「自分を使ってほしい」と申し込んだ。

 経歴から縁のないような尾鷲は、材木商を営む父親の故郷で、本籍地でもあった。小学生時代は毎年(27―32年)訪れ、夏休み1カ月間を親戚宅で過ごした。後に別当が手紙に書いている。

 「私にとって尾鷲は、少年時代の夢の尽きないパラダイスでした」

 浜に「百貫マグロ」が水揚げされ、巡航船が行き交う海を眺め、一日中はだかで遊んだ。中村山で「宝探し」。川でハサミエビを採り、ウナギを釣った。甲陽中では野球に明け暮れたが、最後の38年夏、甲子園大会準決勝で敗れると、同級生3人を誘って再訪、テントで過ごした。そんな思い出がつづられている。

 手紙は作る会、保存会で中心的に動いた東良一(84)に宛てたものだ。97年11月、還暦祝いに届いた。

 交流は別当が阪神入りした48年に始まる。阪神ファンの小学生だった東はファンレターを書き、何通も送った。すると返事が届いた。「天にも昇る気持ちだった」

 当時、別当人気は絶大で全国から手紙が10万通届いたという。開幕前のオープン戦9試合で6本塁打し「別当ブーム」を巻き起こしていた。別当は大量の手紙のなかで、愛する「尾鷲」という文字が目に留まり、うれしくなって筆をとった。

 50年、毎日(現ロッテ)に移籍しても文通は続いた。尾鷲高で三塁手だった東だが、病気で医師から止められ、また7人きょうだいの長男で新聞配達などで家計を助ける事情からやむなく野球部を退部した。別当から「野球はまたできる。母親を助け、家族を守ってがんばりなさい」と励ましの手紙が届いた。

 別当はプロ入り後も尾鷲をよく訪れた。対面した東に別当は「良一君だとすぐ分かった」。

 52年2月には町営グラウンドで尾鷲高野球部の指導を行った。模範打撃を行うと「打球はピンポン球のように吹っ飛んでいった」と伝わる。この時、「努力」としたためた激励の色紙を贈った。

 色紙は今も尾鷲高野球部にある。実は昨年、同校教諭、阪井信太郎(28)が監督に就いた当時、行方不明となっていた。今秋、生誕100年の後に探しだし、大切に部室に飾っている。

 別当を知らない部員たちも柳田悠岐(ソフトバンク)や山田哲人(ヤクルト)のトリプルスリー(3割・30本塁打・30盗塁)を史上初めて達成した打者と聞き、目が輝いた。主将の日高志信(2年)は「偉大な方からいただいた言葉を重く受けとめ、大切にしていきたい」と話した。

 掃除や整備の行き届いたグラウンド、明るいあいさつなど素朴で誠実な姿勢がにじみ出ている。阪井は「素直で懸命に取り組む部員たちです。これを機に自分たちの高校をより愛するようになってほしい」と話した。

 別当は語っていた。「新聞では私の出身地を大阪や兵庫と書くが、本当は尾鷲で生まれたかったし、心は全く尾鷲人と思っている」

 少年時代の夢を追い、監督になっても、ユニホームを脱いでも、生涯にわたって尾鷲と交流を続けた。そんな別当の誠実さ、純粋さが今に伝わっていた。 =敬称略= (編集委員)

 ◆別当 薫(べっとう・かおる) 1920(大正9)年8月23日、大阪生まれ。旧制甲陽中(現甲陽学院高)エース4番として春夏3度甲子園出場。慶大では出征後の戦後、46年春、主将で優勝。卒業後、家業の材木商を継ぐが47年全大阪の一員で都市対抗凖優勝。48年、阪神に入団し、ダイナマイト打線の中軸を打った。50年、2リーグ分立で若林忠志監督らと新球団・毎日(現ロッテ)移籍。同年、本塁打、打点の2冠、プロ野球初の3割30本塁打30盗塁を達成。52年から監督兼任。引退後も大毎、近鉄、大洋(現DeNA)で監督を務めた。88年野球殿堂入り。99年4月16日、心不全のため死去。78歳。 

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