【内田雅也が行く 猛虎の地】焦土のなかの希望だった「ダイナマイト打線」 成瀬少年が見つけた本堂の表札

[ 2020年12月1日 11:00 ]

(1)近大正門前

成瀬國晴さんが描いたダイナマイト打線=画集『時空の旅-そして戦後』より=

 その地に行けば、光景が目に浮かび、声が聞こえてくる。そんな気がする。阪神タイガースの歴史上、ゆかりのある場所を訪ねる『猛虎の地』は4シーズン目を迎えた。球団創設85周年だった今年は、新型コロナウイルスの影響で出張や移動を自粛しながらも準備を進めた。先行き不安の世の中である。賢者は歴史に学ぶという。歴史の森に分け入る思いで、また連載を始めたい。

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 にぎやかに学生が行き交う道を「なにわの画伯」と呼ばれるイラストレーター、成瀬國晴さん(84)と歩いた。東大阪市の近鉄・長瀬駅から10分、れんが造りの近大東大阪キャンパス正門(西門)の手前3軒目で足を止め「ここですね」と言った。テークアウトの唐揚げ丼専門店だった。

 「ここに表札がかかっていました。“本堂保次”とありました」

 70年以上前の話だ。成瀬さんが近大付属中学(当時は理工科大付属中)の生徒だった1949年(昭和24)のある日、通学途中に見つけた。阪神二塁手・本堂保次の自宅だった。「平屋だったと記憶しています。軒の低い家でした。それまでもファンでしたが、タイガースをより身近に感じるようになりました」

 成瀬さんは大阪・難波の日本橋3丁目、旅人宿「むかでや」の三男として生まれた。大阪七福神の一つ、毘沙門天をまつる大乗坊の裏街道に面していた。明治元年に千両で建てられたと伝わる。

 精華国民学校(小学校)3年だった44年8月、学童疎開で滋賀県東押立村(現・東近江市)の東方寺で1年間過ごした。

 45年3月の大阪大空襲で実家や周辺は焼け野原となった。戦後、一家は大阪・三国の親戚宅に身を寄せた。父は買い出しでサツマイモを持ち帰り、次兄が大阪駅前で芋まんじゅうを売った。造船所の海でウナギやエビを採って今里や鶴橋で売った。長兄は千日前の歌舞伎座でバイオリンを弾いて家計を助けた。誰もが食べること、生きることに必死だった。

 子どもは野球をやった。成瀬さんたちはスポンジや軟式テニスのボールを使った「チョビ野球」で遊んだ。角柱を削ってバットを作り、「赤バットの川上、青バットの大下」の向こうを張って黄色に塗った。ミットは生成りの綿で母親が作ってくれた。剣道の面を改造してマスクを作った。

 こんな光景が日本全国で見られた。空き地や路地、広場は野球少年であふれかえっていた。

 成瀬さんと同年代、35年12月生まれの劇作家・寺山修司は青森大空襲で焼け出され、青森県六戸村(現・三沢市)の駅前の親戚宅に転居した。戦後は<一日として野球をしなかった日はなかった>とエッセー『野球の時代は終わった』に書いている。<あちこちに空襲の焦土が残っている広場に私たちはゴムのボールを一つポケットにしのばせて集まってきた。私たちに初対面のあいさつと言うのはなかった。私たちはただ、ボールを見せて「やるか?」とだけ言えばよかったのである>。

 同じく終戦時に小学生だった作詞家・阿久悠は淡路島で、野球史家の作家・佐山和夫は和歌山で……野球をやった。皆、腹を空かせていたが、目は輝いていた。

 白球飛び交うなかに平和あり、と言われた。戦時中、中断されていた野球は、戦後、焦土からの復興を目指すなか、平和の象徴となった。夢や希望が詰まっていた。

 成瀬さんは47年、ガキ大将に誘われ、西宮球場へ阪神―巨人戦を観に行った。球場前、不良少年に「いい席がある」と案内されたのは内外野スタンドの間の通路。畳が立てかけてあり、お金を渡し、中に入ると両側は高い壁。よじ登っていると係員に怒鳴られ、外に逃げた。詐欺の少年たちはもういなかった。

 プロ野球選手の名前はベッタン(メンコ)で覚えた。東急・白木儀一郎、金星・坪内道典、中日・杉浦清、阪急・天保義夫、「へそ伝」山田伝……阪神は若林忠志、土井垣武、藤村富美男……。

 甲子園球場に行くようになった。46―49年と毎年、リーグ最高のチーム打率を誇った「ダイナマイト打線」を見たかった。「あこがれでした。同年代は野球少年ばかりで誰もがあこがれていた。甲子園はそんな夢の場所だったのでしょう」

 本連載のシーズン3最終回(2019年12月28日付)でも書いたが、49年4月24日の甲子園(阪神―巨人戦)は「観衆9万人超」で、ベンチ横まで観衆があふれた。進駐軍兵士が空砲を撃って騒乱を鎮めたほどだ。

 ベンチ前のトス打撃で藤村らが行う「シャドー・プレー」が楽しみだった。表札を見つけた本堂もその1人だ。相手のサイン盗みが得意な頭脳派選手で、力や技ではなく「知の本堂」と異名をとった。「10年選手制度」で一時、大陽に移籍したが49年には復帰した。

 父親が夜店で買ってくれた拡大器で見て、野球選手を描くようになった。雑誌の表紙をなぞった。後年、イラストレーターとなり、ドキュメンタリー・スケッチで野球を描くようになる原点だと言えるだろう。

 自身の体験をもとに今年夏、画集『時空の旅―そして戦後』(たる出版)を出した。戦後75年となる終戦の日(8月15日)に合わせて発行した。

 「おわりに」で新型コロナウイルス禍の今の時代と戦後に<共通性を感じた>と書いた。<見える敵から身を守るための防空頭巾が、見えない敵から感染防止するマスクやフェイスシールドと変わり、閉塞(へいそく)感は国内を覆った>。自粛生活は、家族と一つ屋根の下、絆をつないで生きた戦後を思い出させた。<消毒液や水でウイルスは洗い流せるが、大切な心を洗いおとしてはならない。精神を痩せさせてはならない>。

 「あの戦後と比べれば、プロ野球選手のステータスは格段に上がった。社会的な責任も重くなった。プロ野球は、いまの苦しい世の中でも、夢や希望を与えることができるんじゃないだろうか」

 成瀬さんはいま再び、野球に期待している。あの中学生時代と同じ場所で、同じ青空を見上げた。 (編集委員)

 ◆成瀬 國晴(なるせ・くにはる) イラストレーター。甲子園歴史館顧問、大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)運営懇話会委員。1936年(昭和11)、大阪市生まれ。56年、長沢節門下、明石正義に師事、モードイラストを学ぶ。テレビ番組のロゴやセットのデザインなどを手掛けた。本紙で昨年まで35年にわたり阪神戦の漫画を掲載。「タイガース川柳」の選者・イラストを連載中。95年上方お笑い大賞審査員特別賞、08年日本漫画家協会賞文部科学大臣賞。著書に『なにわ難波のかやくめし』、画集『夢は正夢 阪神タイガースの20年』、画集『学童疎開70年 時空の旅』など。

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