【木内監督追悼連載(1)】「職業監督」を全う 「木内マジック」神髄は人間教育にあり

[ 2020年11月26日 10:15 ]

常総学院・飯田(撮影・米田 充利)
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 高校野球で茨城の取手二、常総学院の監督として春夏通算3度の甲子園優勝を果たした名将・木内幸男氏が24日に肺がんのために死去した。享年89。大胆な用兵や戦法を駆使した「木内マジック」で甲子園通算40勝。多くの高校野球ファンを魅了し続けた名将の足跡を振り返ってみる。

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 木内氏は自分のことを「職業監督」と呼んでいた。教員免許はない。あえて取得しなかった。事実上の「プロ監督」を全うし、非情に徹するときは徹してきた。ただ、指導者の道に進んだ教え子たちのほとんどは学校の教員だ。同じ監督でも“プロ”と教育者。「木内イズム」を継承しながら、そこに采配の機微が生まれる。

 2013年夏の甲子園だった。常総学院は好投手・飯田(現日本製鉄鹿島)を擁してベスト8進出。準々決勝では、2年生エース高橋光成(現西武)がいた前橋育英(群馬)に逆転サヨナラ負けを喫した。この試合で、飯田は8回まで6安打無失点に抑えていた。ところが、2―0の9回に両太股のけいれんのため無念の降板。代わった2年生の金子が2死無走者から追いつかれ、10回にサヨナラ打を浴びて10年ぶりのベスト4を逃した。

 大会後、木内氏はこう振り返っている。「あのとき飯田を交代させとけば、どうだったかなあ」と。「あのとき」とは、北照(南北海道)と対戦した1回戦。飯田が4安打完封した試合だ。木内氏が着目したのは、飯田が二塁走者のときにけん制球が逸れて右腕に当たったこと。幸い大事に至らず続投し、完封した。だが、この1回戦をアルプス席で観戦していた木内氏がつぶやくように言った言葉を覚えている。

 「オレなら6回に6―0となったところで代えたっぺなあ。腕にボールをぶつけてっからね。エースを降ろしたって、相手に失礼になるっていうことにはなんないから」

 投手の負担軽減は夏の大会の重要なファクター。この1回戦の7回以降の3イニングが準々決勝の9回に影響した可能性はある。ただ、それは結果論でしかない。この場面でちゅうちょなく交代できるのは、プロ監督に徹する木内氏ならではだろう。この夏、常総学院を率いていたのは佐々木監督。取手二が84年夏の甲子園決勝で桑田、清原のKKコンビ擁するPL学園を撃破したときの日本一メンバーであり、「木内イズム」を継承する愛弟子だ。そして教員でもある。その佐々木監督の采配に、木内氏は目を細めて言った。

 「佐々木は相手のことも考えて代えなかったんだろうなあ。でも、それでよかっぺ。いい野球してる。オレより大胆な起用もするし、大したもんだ」

 1回戦の完封で勢いづいたからこそ、ベスト8まで勝ち進めたということもある。続投か交代か。確かな答えはない。勝負に徹する戦いと相手を敬っての戦い。そこに共通するのは、甲子園という大舞台で選手の成長を願う思い。木内氏は常々言っている。「甲子園は最高の教育の場。選手が素直になって成長してくれる」と。「木内イズム」の神髄は人間教育にあり、佐々木監督をはじめ教え子たちはその教えを確かに受け継いでいる。

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