【藤川球児物語(7)】夢の甲子園出場 最後の夏は津田恒実氏の言葉「弱気は最大の敵」胸に挑戦

[ 2020年11月19日 10:00 ]

<第79回全国高校野球>97年夏、旭川大を下し、握手する高知商・藤川球児(左)と順一の兄弟バッテリー

 96年4月、藤川球児は1歳上の兄・順一に続き高知商に入学した。父・昭一、母・文子、中学時代の恩師である上田修身も同校の出身だった。

 二つの夢を持っていた。一つは甲子園に出場すること。もう一つはプロ野球選手になることだった。当時の監督である正木陽にも強い印象を残した。「実にバランスのいい子だった。特に上半身のしなりがあるな、と。長所を壊したくなかったので、あまりウエートトレなどをやらせず遠投で肩をつくらせました」。

 チャンスは2年夏にやってきた。チームは高知大会を順調に勝ち上がり藤川も外野手兼救援投手として勝利に貢献した。明徳義塾との決勝では0―0の3回から登板して無失点投球を続けると、8回に順一が決勝のソロ本塁打。1―0で勝ち、兄弟バッテリーで夢切符をつかんだ。

 甲子園初戦となった旭川大高戦。順一が古傷の左膝靱帯(じんたい)を痛めるアクシデントに見舞われる中、藤川は4回から登板し6回無失点の好投で勝利を呼び込んだ。2回戦では左腕・川口知哉(元オリックス)を擁する平安に敗れたが、互角に投げ合った。大会後には高校日本代表の一員として川口らとブラジル遠征を経験。サンパウロ選抜戦で7回5安打3失点の成績を残した。

 だが、まだ2年生。海外を含めた連戦の負担が右肘にかかった。秋季四国大会1回戦・宇和島東戦で打ち込まれ3―12の敗戦。「思うような球が投げられない」と悩む時間を過ごした時に、父から1冊の本を渡された。広島の名ストッパー・故津田恒実の生きざまを描いた「炎のストッパー」だった。「弱気は最大の敵」という津田の言葉を胸に最後の夏に挑んだ。高知大会準決勝で高知に1―3で惜敗。2年連続甲子園出場の夢はついえたが、ネット裏には、その一球一球に視線を送る阪神スカウトの姿があった。 =敬称略=

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2020年11月19日のニュース