気がつけば40年(27)3連敗の崖っぷちから4連勝 2度までも巨人を救った藤田元司監督

[ 2020年10月24日 08:00 ]

近鉄を相手に3連敗4連勝。藤田監督が巨人を8年ぶりの日本一に導いた。1989年10月30日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は王監督解任を受けて復帰した1989年に巨人を日本一に導いた藤田元司監督について書きたい。

 3連敗の崖っぷちから4連勝。日本シリーズ史上3度目の大逆転だ。6年ぶりの采配で、いきなりの日本一。激闘を終えた藤田監督は穏やかな表情で口を開いた。

 「凄い選手たちだと思います。あの近鉄の勢いをはね返して…。前任者の王監督が礎を築いてくれたんです。私一人では何もできません」

 前任者を立てるのが苦労人の監督らしい。

 長嶋解任を受け、逆風の中で監督に就任した1981年もそうだった。79年オフの伊東キャンプで鍛えられた江川卓、西本聖、中畑清、篠塚利夫(のちに和典)らの力を存分に引き出して巨人を8年ぶりの日本一に導いた。

 それ以来、またまた8年ぶりの日本一。長嶋、王という大功労者が解任された後を受けて監督に就任し、いずれも初年度に最高の結果を残したのである。

 「ピンチのようなものは感じていました。長嶋や王の仇をとらなければならないし、代々巨人軍を築き上げてくれた人の名誉とか、そんなものを背負っていかなければならないと肝に銘じてました」

 最初の監督は3年間で2度のリーグ優勝。「やることはやった。もう絶対にユニホームを着ることはないだろう」と思って王助監督にバトンを渡した。だが、王監督は5年間でリーグ優勝1度だけ。日本シリーズも勝てなかった。藤田監督は心臓病を持ちながら、務台光雄読売新聞社名誉会長に懇願され、ニトログリセリンを忍ばせて2度目の任に就いたのである。

 前回は王助監督、V9時代の参謀役だった牧野茂ヘッドコーチとのトロイカ政権だったが、牧野氏は1984年12月にがんで亡くなっている。自分に話が来る前に巨人の監督要請を断った広岡達朗氏に相談した。

 「黒江(透修)と近藤昭仁の2人のうち、ヘッドコーチはどっちがいいですかね?」

 西武監督時代、2人をコーチとして使った広岡氏の回答は「黒江は一家言を持っとる。近藤は言ったことは何でもきっちりやってくれる」。同じ四国出身で大洋(現DeNA)のコーチ時代に一緒だった近藤氏を選んだ。

 さらに中村稔投手コーチ、滝安治守備コーチを呼んで足下を固めると同時に西本聖、加茂川重治を出して2対1のトレードで中日から中尾孝義を獲得した。

 現有戦力では原辰徳を三塁からレフトへコンバート。原は両足アキレス腱に持病がある。瞬発的な動きが多い三塁から外野へ回して負担を軽くしようという配慮だ。秋季練習で原に「レフトをやってくれ」と伝えると「2度とサードを守ることはないんですね」。じっと目を見て「そうだ。絶対にない」と断言した。

 三塁には原に一塁へ追いやられる形になっていた中畑を戻し、切り込み隊長として開幕から1番で起用した。絶好調男は期待通り毎試合ヒットを打ったが、5戦目の阪神戦(甲子園)で9回、けん制球で一塁に帰塁した際に薬指を脱臼。これがケガの功名となる。

 1981年に中畑の左肩脱臼でルーキーだった原が二塁から三塁に回り、二塁に篠塚が収まったように、今度は岡崎郁が一塁から三塁に回り、一塁には駒田徳広が収まった。

 ショートは川相昌弘がレギュラーの座をつかみ、内野陣が安定。外野手では前年死球で左手親指を骨折し49試合しか出場できなかったウォーレン・クロマティが開幕から打ちまくった。最終的には打率・378に終わったが、8月21日まで・401と4割をキープ。打線を引っ張った。

 「先発完投」をモットーとする投手陣は中尾の強気のリードもあって覚醒した斎藤雅樹が11試合連続完投勝利のプロ野球記録を達成。桑田真澄、槙原寛己らとともにチーム69完投を記録した。シーズン130試合の時代。半分以上が完投だったわけである。

 84勝44敗2分けと圧倒的な強さでセ・リーグを制し、迎えた日本シリーズ。シリーズの流れと選手の状態を見て動いた。第1戦4番に据えた原の調子が悪いと見ると、第2戦は5番、第3戦から7番に下げた。

 いきなり3連敗。もう後がない第4戦では緒方耕一に代えて1番に簑田浩二を入れた。初回、このベテランが左中間二塁打を放ち、川相の送りバントで三進。岡崎の浅い中飛で光山英和のブロックを右に回ってかわし、滑りながら左手でホームにタッチした。この試合は香田勲男が3安打完封。5―0で快勝したが、初回に技ありの走塁で先制したのが大きかった。

 原を無安打のまま5番に戻した第5戦は2―1で迎えた7回、2死一、三塁からクロマティが敬遠され、原に打席が回ってきた。屈辱的な満塁策。意地の一打は左翼席最前列に飛び込んだ。シリーズ19打席の初安打がグランドスラムとなったのである。

 原は第7戦、4―2の6回にも2ラン。リードを4点に広げ、このシリーズを最後に現役を引退する中畑の出番をつくった。DH吉村禎章に代わる代打で登場した絶好調男は吉井理人の直球を左中間スタンドに運び、最高の花道を飾った。

 決して死に駒はつくらない。目配り、気配り。選手の状態を把握して勝負すべき場面では大胆な策に出る。そんな指揮官が長嶋、そして王というスーパースターを切り捨ててファンの反感を買った巨人のピンチを2度までも救ったのである。

 「これで読売巨人軍がひとつになりましたね。うれしいです」

 藤田監督は勝利監督インタビューの最後をこう締めくくった。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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