ドラフトの歴史 指名拒否相次ぐ第1回 09年から有観客 89年にデジタル化 抽選で勘違い…

[ 2020年10月20日 05:30 ]

09年から一般ファンの会場入場が始まったドラフト会議
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 【ドラフト会議 変遷&名場面】

 ▽第1回 65年11月17日に初開催。両リーグの間でウエーバー方式の優先権を決めるため、この年の最下位球団だった産経と近鉄によるじゃんけんが行われた。公開は冒頭のみで、集まった約100人の報道陣が退室した後、第1次選択が開始。契約金の上限が1000万円に定められるなど選手サイドの不満が大きく、指名拒否が相次ぎ全体132人の指名で入団したのは52人と、入団率はわずか39%だった。

 ▽有観客 09年から一般ファンの会場入場が始まり、抽選で選ばれた1000人が招待された。公開ドラフトに伴い、それまで昼間だった開始時間が夕方へと変更。交渉権確定後の抽選者の公開インタビューや、抽選ボックスを半透明にして手の動きを見せるようにするなど、さまざまな演出が加えられた。抽選結果や、指名の度に歓声やどよめきが起こるなど、緊張感や臨場感が増加。また、観戦したファンには、お土産も配布された。

 ▽デジタル化 第1回から88年までは指名選手は司会者が読み上げ、1位確定選手については手書きされた紙などが会場のボードなどに提示される方式が続いた。89年からは会場に12球団の指名選手が映るモニターが設置され、2位以下の選手も表示する方式になった。また、各球団の指名選手の提出は手書きで記入していたが、10年からはコンピューター入力に変更。年々、開催時間の短縮を図ってきた。

 ▽勘違い 近年は抽選の際に勘違いが多発。高校生と大学・社会人の分離ドラフトだった05年。大阪桐蔭・辻内が巨人、オリックスの抽選となり、オリックス中村勝広GM(当時)が喜び、一度は交渉権獲得と発表も、実際は巨人・堀内恒夫監督が当たりクジを引いていた。15年も明大・高山(現阪神)を阪神、ヤクルトで抽選。ヤクルト・真中満監督がガッツポーズを見せたが、阪神の金本知憲監督(当時)が当たりクジを引いていた。

 ▽司会 第1回の65年から91年までは、当時パ・リーグ職員で76年に同広報部長になった愛称「パンチョ伊東」で慕われた伊東一雄氏が務めた。92年と94~08年は日本野球機構(NPB)職員が担当。93年はフリーアナウンサーの渡辺謙太郎氏、09~19年はフリーアナウンサーの関野浩之氏が務めている。02年に伊東氏が亡くなった際には長嶋茂雄氏(現巨人終身名誉監督)が「あの声を楽しみにしていた人も多かった」と語っている。

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