気がつけば40年(23)クロマティ離脱で衝撃デビュー 呂明賜に書いてもらった「再見全壘打」

[ 2020年10月9日 08:30 ]

サヨナラホームランを放った呂明賜を1面と最終面の見開きで扱った1988年6月26日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は1988年、故障で離脱したウォーレン・クロマティに代わって1軍へ上がり、初打席初本塁打を放つなど衝撃的なデビューを飾った「アジアの大砲」呂明賜について書きたい。

 6月13日、クロマティが阪神戦(甲子園)で久保康生の投球を左手親指に受けて骨折。2軍で12本塁打、34打点、打率・387のイースタン3冠王にようやくお呼びがかかった。この年、台湾の中国文化大から巨人に入団した呂明賜である。

 当時の外国人枠は支配下登録3人で1軍でプレーできる出場選手登録は2人。巨人にはクロマティと前年オフに電撃引退した江川卓の穴を埋めるべく獲得した現役大リーガーのビル・ガリクソンがいた。第3の外国人はこんなアクシデントでもない限り1軍には上がれなかった。

 14日のヤクルト戦(神宮)。初めて1軍に上がった呂明賜はいきなり6番ライトでスタメンに名を連ねた。初回、2点先制し、なお1死一、三塁で打席が回ってきた。初球ボールのあとの2球目。こちらも来日初登板のボブ・ギブソンが投じたスライダーを前傾姿勢からフォロースルーの大きいスイングで捉えると、打球は大きな弧を描いて左翼スタンド中段に舞い降りた。

 初打席初本塁打。王貞治監督から10万円の監督賞をもらった背番号97は勢いに乗った。初めて5番に座った18日の中日戦(ナゴヤ球場)で2、3号を放つと19日の同戦で4号。本拠地初見参となった21日の大洋戦(東京ドーム)で5号と3試合連続ホームランである。

 このあと2試合は不発に終わったが、25日のヤクルト戦(同)で再点火する。6回に同点の6号ソロ。そして1点ビハインドで迎えた9回、原辰徳の左翼線適時二塁打で同点としたあとの1死二塁で打順が回ってきた。

 ヤクルトベンチから関根潤三監督が出てきてマウンドへ。一塁が空いている。敬遠かと思ったが、後ろに6番・篠塚利夫(のちに和典)、7番・中畑清と嫌な打者が続く。勝負だ。伊東昭光の初球、前の打席でも投げられた胸元を襲う直球を完ぺきに捉えた。

 開場1年目の東京ドーム。空気膜構造の屋根を突き破らんかの大歓声を浴びた打球は左翼席へ飛び込んだ。サヨナラ7号2ランだ。右の拳を突き上げる。ときおり左右の手を合わせてダイヤモンドを一周したヒーローは、本塁ベースで待っていたチームメートの手荒い祝福にその身を委ねた。

 「一番大事な場面で打ててうれしいです。ホームランを狙ってたわけじゃありません。ただ確実なバッティングをしようと思ってました」

 お立ち台のヒーローインタビューが終わったあとの囲み取材。私はスコアブックを差し出して「サヨナラホームランを台湾語で書いて」と頼んだ。「アジアの大砲」は気軽に応じてくれた。

 「再見全壘打」

 1面と最終面で見開いた破格の扱い。冒頭の紙面の左側、ガッツポーズを取る呂明賜の両足の間に小さな写真が載っている。「再見」はサヨナラ、「全壘打」はホームラン。「塁」じゃなくて「壘」だったのがうれしかった。

 ちなみに6月25日は29年前の1959年に後楽園球場で初の天覧試合が行われ、長嶋茂雄が村山実から劇的なサヨナラホームランを打った日だった。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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