空襲下、命がけで守った日記、手紙 「プロ野球を守った男」小島善平余話(前編)

[ 2020年8月20日 08:00 ]

出征直前の小島善平氏が阪急軍マネジャー益田秀高氏に出した手紙(1945年1月13日付)。「野球道を守り……」とある=遺族提供=
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 【内田雅也の広角追球】終戦から4分の3世紀の節目を迎え、企画として『野球ができる喜び――コロナ禍の戦後75年』を上中下3回にわたって連載した。14日掲載で取り上げたのは戦前戦中戦後を通じ、日本野球連盟(NPBL)=今の日本野球機構(NPB)=関西支局長を務めた小島善平(1903―57年)の功績である。

 今回は連載で書ききれなかった余話を前編、後編の2回に分けて書いておきたい。

 連載で書いたように、戦後45年11月にプロ野球復活を告げる東西対抗戦が開催できたのは、小島が出征前に保管した野球道具のおかげである。何しろ、連盟会長・鈴木龍二が「東京には何もない」という状態で、鈴木と小島の部下で支局職員の嘉治井安兵衛が神戸から闇列車で東京まで運んだのだった。

 1945(昭和20)年1月、41歳で召集を受けた。出征する前、ボールやバット、グラブなど野球用具を関西支局の事務所があった西宮球場に隠した。一塁側の倉庫で、阪急百貨店の物資避難場所だった。

 <前略 十三日午前一時頃、臨時召集電報が参りました>と阪急軍マネジャーで交流の深かった益田秀高に宛てて書いた手紙が残る。<入隊は十四日午前八時、小倉西八〇八八部隊です。本日十時頃出発する予定です>。出征当日の1月13日に書かれたものだ。

 <野球道関西残存編成の真中、その誕生を見ずに行く事は残念ですが、国家の存亡を前に応召する事は九州男児の本懐です>
 小島は九州・福岡生まれだった。44年、時局に対応して日本野球連盟は日本野球報国会と名称を変え、戦前最後の公式戦を行った。応召が相次ぎ選手不足は深刻で、9月に「総進軍大会」を開いたのを最後に11月13日、一時休止を発表している。

 だが、関西では4球団を朝日・近畿、阪神・阪急の混成2球団に再編し、甲子園や西宮で関西対抗戦などを続けていた。45年も元日から5日間、正月大会を開催している。小島の召集はその直後で、まだ残務処理も終えていなかった。益田宛の手紙には大会費用の支払先や金額が明記されていた。

 「その誕生を見ずに」というのは、関西でまだ何か大会を計画していたのだろう。終戦に至る45年である。野球への相当な執念がうかがえる。

 小島が克明につけていた日記で44年7月31日に<朝日のこの記事を見よ。今こそ報国野球再興の絶好の時なり!!>とある。同日付の朝日新聞コラム『神風賦』(戦後『天声人語』と改題)を切り貼りしている。コラムには<娯楽は余計だというので健全娯楽まで一斉に停止してしまう>ことは<考えおく必要がある>。そして<せめて多少の潤いを残しておかなければ、民心を旱魃(かんばつ)と洪水から救えなくなるのである>との主張が展開されていた。

 元は神戸で無声映画の活弁士をしていた小島は36年、日本職業野球連盟(後の日本野球連盟)創設時、親交のあった市岡忠男(巨人初代総監督)らの勧誘を受け、連盟関西支局長に就いた。健全娯楽への思い入れは強かった。

 小島はこの44年9月24日、公式戦終了の閉会式で最後にあいさつを行っている。「あらゆる困難を突破し、甲子園、西宮を中心に日本野球の使命を遂行し、野球道を守り抜く決意である」

 野球用具の保管も益田に頼んだ。幸い、西宮球場は空襲による被災がなかった。戦後、進駐軍による接収もなかった。

 こうした手紙や日記が大量に残っている。1940(昭和15)年から45年まで計8冊。戦前のプロ野球の事情を知る第一級の資料だ。

 この資料をまさに命がけで守ったのが小島の長女・惠江(のぶえ=89)だった。

 小島家は神戸市の中心地、中山手通にあった。自宅は45年6月5日の神戸大空襲で全焼した。一度出征後、体調を崩して除隊となった小島は4月8日に2度目の召集を受け、玄界灘の対馬に駐屯していた。長男・昭男(当時17歳)は学生で福岡の善平実家にいた。自宅には妻・栄子(当時40歳)と第二神戸高女の学生だった惠江(当時14歳)がいた。

 「父の日記や手紙、写真はかけがえのない物として運び出しました。手紙は封筒を捨て、写真はアルバムからはがしてかさを低くしてリュックサックに詰めました」

 焼夷(しょうい)弾の降るなか、まさに命をかけて父の資料を守ったのだった。

 戦後長く眠っていた日記が見つかったのは1991年だった。開戦50年の節目にある新聞が「女たちの太平洋戦争」といったテーマで手記を募集していた。

 惠江は小学校のころ、父から「日記をきちんとつけておくように」と言われていたことを思い出した。「自分の日記を探していますと」父の日記が出てきたのだった。=敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。2010年12月、小島善平氏の長男・昭男さんから「見ていただきたいものがある」と投書が届き、日記や手紙を提供していただいた。大のビール愛好家、豪快で愉快だった昭男さんも2016年、鬼籍に入った。善平氏も愛酒家だったと聞く。今回の戦後75年連載やコラムが父子の酒の肴(さかな)になれば、と祈っている。

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