ベンチもスタンドも涙した代打タイムリー 手術から復帰の桐蔭・前川父子が見た「野球の神様」

[ 2020年8月3日 14:42 ]

2020夏 高校野球和歌山大会 準々決勝   桐蔭6―11箕島 ( 2020年8月3日    紀三井寺公園野球場 )

試合後に握手を交わす桐蔭・前川泰輝選手と父・敦英さん
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 出番は突然訪れた。1―8と大量リードされた5回表1死満塁。三塁ベースコーチにいた桐蔭の背番号12、前川泰輝(3年)が代打で呼ばれた。「打つぞ、じゃなく、打てる!と思っていきました」。素振りを2回して、左打席に向かった。

 初球。狙いすましたように外角寄り直球をライナーで中堅左にはじき返した。二塁打だ。2者が還り、ベンチは沸き返った。

 「初回から“代打で行くぞ”と聞いていましたので、心の準備はできていました。相手投手を見て、タイミングを計っていました」

 初回から代打準備を指示していた伊藤将監督(40)から「外角球をセンターから左へ打て」と狙いの指示も受けていた。打席に入る前の素振りで「内角球を引っ張るスイング」を相手バッテリーに見せて、外角球を誘う周到さも忘れなかった。その監督も「狙い通りに打てるのは素晴らしい」とたたえた。

 2回戦・熊野戦(7月24日)に代打で一ゴロに倒れていた。前川にとっては夏の大会での初安打だった。

 劣勢ムードが吹き飛んだのは本当だ。ベンチが沸き返ったのには理由がある。大松義明部長(36)は「思わず涙がこぼれた」とベンチ隅で泣いていた。伊藤監督は「一生懸命努力してきたヤツが結果を出すのはうれしい。選手たちも同じでしょう。苦しむ前川の姿はみんな見てきた。感動していました」と喜んだ。

 前川は高校に入学した当初、足を傷めて満足に練習ができなかった。2年生となった昨年は5月ごろから腰が痛んだ。椎間板ヘルニアだった。腰は曲がらず、動けない。「練習には出るのですが何もできませんでした。見ているだけ、と言いますか……」。裏方の仕事を続ける日々だった。

 昨年8月、同じ腰部ヘルニアだった阪神・望月惇志投手(23)を手術した和歌山市の病院で、同じ医師執刀のもと、手術を受けた。11月まで懸命にリハビリを続け、ようやく練習に参加できるようになった。

 スタンドでは父・敦英さん(48)が大粒の涙をこぼしていた。苦しむ一人っ子の息子を励まし、支えてきた。「今までやってきたことが実を結びました。やっぱり、野球の神様はいます。本当に見ていてくれました……」

 敦英さんも桐蔭野球部OBだ。息子と同じ同じ左投げ左打ち。背番号1で迎えた3年夏、1989年夏の和歌山大会は決勝で智弁和歌山に延長13回、1―2でサヨナラ負け。あと一歩で甲子園に届かなかった。最後は右翼手としてサヨナラの右前打を拾った悔恨がある。

 2008年から自身もプレーした和歌山リトルリーグ監督を務める。コロナ禍での長い自粛期間、そして最近も、紀の川河川敷にあるリトルリーグ・グラウンドで息子の自主練習に付き添った。
 前川は「父に練習を付き合ってもらいました。今日のヒットには父の力も加わっていたと感謝しています」と話した。

 卒業後は大学に進むが選手として野球を続けるかどうかは分からない。「将来、審判になりたいんです」という目標がある。「野球は大好きです。でも、僕は性格的にも表で目立つ存在より、裏で支える仕事が向いているように思います。審判にあこがれています」

 けがで苦労していた当時、陰でチームを支えてきた経験も支えだ。

 桐蔭は春夏3度の全国優勝、夏14年連続出場などの実績を誇る名門・和歌山中の伝統をひく。和中・桐蔭野球部OB会長の新島壮(つよし)さん(71)も「敗れはしたが」と言って「前川の一打には涙が出た。いいものを見せてもらった」と話した。「努力、練習はウソをつかない、ということだね」と、生きていた伝統をかみしめた。(内田 雅也)

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