【内田雅也の追球】「夏の甲子園」は球児のために――高校野球中止でも阪神はロードに

[ 2020年6月2日 07:00 ]

18年8月15日、甲子園球場での試合中に黙とうをささげる興南ナイン
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 タイガースの球団創設は1935(昭和10)年12月10日で今のプロ野球で巨人に次いで古い。

 3都(東京、大阪、名古屋)7球団による日本職業野球連盟(NPBL=今のNPB)設立総会が開かれたのが36年2月5日。4日後9日の巨人―名古屋金鯱軍(鳴海)がプロ同士の初の対戦とされている。以後、各球団は各地で、今で言うオープン戦を行っている。

 対外試合開催が最も遅かったのがタイガースだった。4月19日、甲子園にセネタース、金鯱を迎えた披露試合を行った。<四カ月のあいだ、未だ試合をしていなかった。おくればせながら>と思想史・野球史研究家・中西満貴典の『プロ野球の誕生』(彩流社)にある。公式戦開幕10日前、駆け込みの初実戦だった。

 浜の宮(今の加古川市)合宿や甲子園で練習はしていた。だが選抜中等学校野球大会があった。大会は3月29日から4月6日まで開催された。

 本来、甲子園は中等野球(今の高校野球)人気が沸騰したため建設された。鳴尾球場で開催されていた全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)の人気が高まり、1923(大正12)年夏の準決勝、甲陽中―立命館中戦では観客が場内にあふれ、1時間半も中断した。球場を運営する阪神電鉄は都市交通視察で米国滞在中の車両課長・丸山繁に「鳴尾がパンク」と電報を打ち、大リーグの球場設計図を入手するよう指示した。本社専務――当時社長制は敷いておらず、実質ナンバーワン――の三崎省三が後に本社社長、球団オーナーも務める青年技師・野田誠三に設計を命じ、甲子園球場は翌24年8月1日に完成したわけだ。

 だからか、球団草創期は「自由に甲子園を使えないこともあったと聞いた」と元球団幹部の奥井成一が話していた。球児たちが優先されていた。

 さて、1日発表されたセ・リーグ日程は7月23日までの限定版だった。その後の日程は未発表だが、中止となった第102回全国高校野球選手権大会期間中(8月10日から16日間)、阪神は例年通り、夏の長期ロードに出る。すでに内定している。

 阪神球団幹部は「高校野球に使っていただこうと考えている」と空けてある。同じく中止だった選抜出場32校の「救済策」もあろう。夏の選手権大会中止での代替イベントもできる。実際、日本高校野球連盟(高野連)からの連絡はまだないというが、阪神球団は甲子園を球児のために開放しているわけだ。

 実は、夏の甲子園大会中止を受けて、頭に一案が浮かんでいた。8月15日・終戦の日に甲子園で阪神が試合を行うとなれば史上初めてのことだ。戦後75年の節目に、戦没野球人追悼になると考えた。

 阪神で言えば、景浦将、西村幸生ら草創期の中心選手が戦火に散った。相手を巨人として伝統の一戦ならば、沢村栄治や吉原正喜らが還らぬ人となっている。そんな有名選手はもちろん、多くの無名選手もいる。例年、高校野球開催中の8月15日正午に行う黙とうを、試合前行事とともに行えばいい――と考えた。

 「それは妙案ですが」と先の幹部は言った後、やはり「高校野球に」と繰り返したのだった。=敬称略=(編集委員)

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