【内田雅也の猛虎監督列伝(26)~第26代 藤田平】孤立した「鬼平」の寂しき末路 前代未聞の解任拒否

[ 2020年5月16日 08:00 ]

1996年9月12日の午後5時から、翌13日午前2時過ぎまで9時間以上に及んだ会談を終え、球団事務所を後にする藤田平監督
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 1995年夏、シーズン中に辞任した中村勝広の後任に2軍監督の藤田平が就いた。本紙連載に「スムーズに物事が運び過ぎてこっけいだ」と球団職員の談話がある。球団は6年目を迎える中村体制で2軍監督に藤田を据えていた。監督交代を見越した人事だった。

 球宴前最終戦で中村最後の指揮となる7月23日朝、次期監督を示唆された藤田は鳴尾浜にいた。報道陣が詰めかけ衆人環視のなか、練習に遅刻した新庄剛志に外野の芝の上で正座を命じた。選手同士で決めた罰則だが、足首を傷めていた新庄はトレーナー室で相談していた。藤田は理由も聞かず遅刻と決めつけた、と後に新庄が語っている。

 球宴中の練習では炎暑のなか50分のダッシュを課した。厳しさと名前の「平」から『鬼平犯科帳』になぞらえ、自ら「鬼平になる」と語った。

 24日、大阪・野田の電鉄本社にオーナー(本社会長)・久万俊二郎を訪ねた。辞任を了承した中村は「休養」扱い。「監督代行」に就いた藤田は「力を出し切れていない選手が多い。梅雨時のようなチームを梅雨明けさせたい」と語った。

 就任初戦で桧山進次郎を4番起用するなど色は出したが、17勝36敗と成績は上向かなかった。

 シーズン終了恒例のオーナー報告は10月18日にあり、藤田は正式に監督となった。この時、契約年限について藤田が語っている。「複数年の話も出たが、阪神はそういう契約はしないということだった」つまり単年(1年)契約だった。<肝心の監督任期>と本紙・鈴木光が書いている。後の騒動で争点となった。

 12月の契約更改。新庄が球団への要求をはき出した。「ここまで来たのは2人のおかげ」という前監督・中村の退任、打撃コーチ・柏原純一の解任も不満だが「理解できない交代や抹消や昇格がある」と藤田の采配を批判した。「阪神を辞めたい。環境を変えたい」とトレード志願。「僕にはセンスがない」と引退まで宣言した。結局は「倒れた父親に野球する姿を見せるのが一番の薬」と撤回して契約した。3週間に及ぶ騒動だった。

 藤田自身も84年オフ、監督・安藤統男への不満からコーチ就任を拒否し「安藤監督の下ではやっていられない」と引退・退団している。因果は巡るということか。

 迎えた96年。藤田は調整不足を理由に4番のグレン・デービスを開幕2軍に落とした。グレンは「悪いのは誰かというスケープゴートにされた」と怒りをぶちまけた。

 最悪ムードで開幕し、一時は87年の球団最低勝率を下回るほど負け続けた。5月26日からは応援団がふがいない戦いに抗議し、鳴り物をやめた。この応援ボイコットは6月2日まで続いた。

 その2日のヤクルト戦(千葉)ではデーゲームで敗戦後、移動の京葉線に男性数人が乗り込み、東京駅で藤田に「頼むから辞めてくれ」「話を聞け」と抗議。球団同席で新幹線の個室で会談する異例の事態。藤田は「今は若いチームを育てているところ。サポートしてほしい」と説明した。

 本紙評論家の西本幸雄は6月4日付紙面で<監督は選手に語りかけ、情熱に共鳴する者を増やせ。情熱がないならば辞めればいい>と提言している。<フロントも監督も心が熱くないと見えたならば、選手たちが立ちあがれ。物騒な言葉だが、自分たちで革命を起こす気構えがほしい>。

 自分に厳しく、阪神唯一(当時)の2000安打を放った藤田は他人にも厳しい。自他ともに認める口べたで意思疎通を欠いた。理解者は少なく孤立していた。

 7月、航空営業部から異動で球団常務に就いた野崎勝義は著書『ダメ虎を変えた!』(朝日新聞出版)で<采配以外で藤田監督の評判はよくなかった>と記している。<営業部から、総務部から、選手からも。周辺からの反発が彼には致命的だった><ファンの指弾は無論、マスコミの監督降ろしは痛烈であった>。

 8月に入ると球団内で監督問題が話し合われ、藤田に厳しい意見が飛び交った。元ユニホーム組の西山和良、横溝桂も球団取締役にいた。取材をもとに24日付1面で書いた「今の戦力なら57勝はできる」との分析は当時の成績では及ばぬ数字で解任の要件となった。

 藤田は28日、オーナー・久万から聞いた「私から辞めさせることはない」との言葉を盾に留任を主張。29日に球団社長・三好一彦が久万に確認し「藤田監督の取り違い」と会見で否定した。

 9月3日、臨時の球団役員会を開き、三好は「監督問題の検討を開始した」と発表した。ある役員は「辛らつで厳しい内容だった」と解任は固まった。6日には藤田に内々に「今季限り」と伝えていたと後にわかる。

 12日、緊急球団役員会で藤田の即時解任を決め、甲子園の球団事務所で通告した。ところが藤田は「オーナーから何年もやれと言われている」と不当解雇を訴えた。三好は久万に電話で確認して否定するなど、押し問答が続いた。午後5時に始まった会談は日付が変わった13日午前2時過ぎまで、何と9時間以上に及んで物別れとなった。

 契約は1年なのは確かだった。翌13日の会談は30分。金銭補償を受けて藤田は解任に応じた。同日夜の横浜戦(横浜)からチーフコーチ・柴田猛が監督代行として指揮を執った。

 観客動員は200万人を割り込み(186万人)、球団は28年ぶりの赤字に転落した。危機感が募った。=敬称略=(編集委員)

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