【内田雅也の猛虎監督列伝(16)~第16代・村山実】苦悩の「指揮権返上」が招いた悲劇

[ 2020年5月5日 08:00 ]

1973年3月21日、引退試合となった巨人とのオープン戦で、江夏豊らが騎馬を組んで村山実をマウンドに送り出した
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 2年続けて鶴岡一人の監督招へいに失敗し、後藤次男が事実上解任となった1969(昭和44)年秋、村山実に球団社長・戸沢一隆から電話が入った。「安芸へ行ったら、じっとしていろ」

 村山が小倉での東西対抗を終え、秋季キャンプ地の高知・安芸に入ったのは11月10日。電話は9日夜か。<なんのことだろう?>と自伝『炎のエース』(ベースボール・マガジン社)にある。

 同じく監督候補だった吉田義男にも電話があった。「あすの飛行機で戸沢さんがそっちに行くよ」。五百崎三郎の『そして、猛虎が甦った』(東都書房)にある。電話を<十一月三日の夜>と書いているが、東京でのセ・リーグ理事会を終え、戸沢が安芸入りするのは14日だ。電話は13日だろう。「村山実を監督に昇格させるという報告をもってだからネ」

 電話の主は恐らく五百崎本人だ。本名は国分三郎。吉田と近い新聞記者だった。吉田は<返す言葉もなかった>。

 14日の練習後、戸沢は安芸のフロント定宿、清月旅館に2人を呼んだ。社長室の4畳半。先に吉田を呼び「村山を助けてやってくれ」。次いで村山に「君に監督をやってもらうことになった」。戸惑う村山に「吉田のことは任せておけ」。

 帰阪後の17日、大阪・梅田の電鉄本社で村山の監督就任発表があった。吉田は戸沢に呼ばれた。<コーチ契約の話かと思ったら戸沢社長は「身を引け」と告げた>と『牛若丸の履歴書』(日経ビジネス人文庫)にある。

 このオフ、南海(現ソフトバンク)が野村克也、西鉄(現西武)が稲尾和久と青年監督が誕生、ブームに乗った。奥井成一『わが40年の告白』(週刊ベースボール)には<野田オーナーは村山君の熱烈なファンでかわいくて仕方なかった>。

 33歳で兼任監督となった村山は70年のキャンプ初日、全員に5カ条の「選手心得」を告げた。「ボウリング、玉突き禁止」「時間厳守」……。後に「虎風荘通達」として「金銭貸借の禁止」「掃除当番制」などを命じた。子ども扱いに反発されたが、球界が暴力団関係者との交際や八百長の「黒い霧事件」に包まれていた事情があった。

 6月、江夏豊が竹中組組長から腕時計をもらったと報じられ、問題となった。村山は連盟の厳罰を避けようと先手を打ち、江夏を13日間謹慎させた。復帰後初先発の7月4日中日戦(甲子園)で試合開始時、村山は登板する江夏に付き添い、マウンド上で頭を下げた。

 8月26日の広島戦(甲子園)では田淵幸一が頭部死球を受け、死線をさまよった。江夏は心臓疾患でニトログリセリンが手放せなくなった。

 それでも終盤まで巨人と首位を争った。最終2位。村山は投回数156と少ないが、防御率は脅威の0・98と2リーグ制最高記録。江夏はリーグ最多投球回で21勝、奪三振王、巨人戦の先発13試合は突出していた。

 2年目71年の開幕前、村山は持病の血行障害の定期検査を受けた神戸の田所病院で胸部疾患(結核)が判明した。新聞発表は「胆のう症」とごまかし、登板は控えた。

 シーズンは5位と沈んだ。村山の登板は19試合(先発10試合)と減り、批判の的となった。村山が投手の際、ベンチを任せられる人材を求めた。「OBに限る」とオーナー・野田誠三が命じた。村山は戸沢と話し合い、ヘッドコーチに元監督の金田正泰を招いた。

 迎えた72年、開幕から2勝6敗で迎えた4月21日、広島戦の試合前、甲子園球場で村山は戸沢、金田、コーチ・西山和良を集め「投手に専念したい」と決意を伝えた。指揮は金田が代行する。1週間眠れずに考えた投手陣立て直し策だった。

 スポニチ本紙の記者・荒井忠は同年オフの総括原稿で、すでにキャンプ中から村山・金田の仲は別離へと向かっており、この指揮権返上で<波乱間違いなし>と踏んだ。

 5月11日の5割復帰で金田は戸沢に「指揮権を戻したい」と申し出たがチーム好調を理由に現状継続となった。以後も幾度か指揮権返還は検討されたが戸沢は却下した。金田は「監督代行」と呼ばれるようになった。

 奥井は当時、本社専務・田中隆造が遠征先宿舎まで金田を呼び出す電話をかけてきたと記している。そして<指揮の継続を球団に押しつけた>。

 マジック1の巨人を迎えた10月7日の甲子園。村山は「最後の花道」として自ら先発。ONにアベック弾を浴び、巨人の8連覇が決まった。村山はもう登板しなかった。

 戸沢は10月24日、病に伏せていた野田の自宅を訪ね、金田昇格の了承を得た。監督辞任の村山は11月2日、現役引退を発表した。背番号11は永久欠番となった。

 引退試合は翌73年3月21日、オープン戦の巨人戦(甲子園)。すでに運動具用品SSKの社員で働いていた村山は半年近く練習していなかった。引退登板に向け、キャッチボール相手を務めたのが、明星中3年生の岡田彰布だった。父親が阪神の有力後援者で古くから村山と親交がった。

 登板は7回表。江夏や上田二朗らが騎馬を組んで村山をマウンドに送りだした。涙でサインが見えない。全球、代名詞のフォークで3者三振、別れを告げた。=敬称略=(編集委員)

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