【内田雅也の猛虎監督列伝~<11>第11代・金田正泰】「排斥運動」の自業自得 代理は自ら招いた名将

[ 2020年4月30日 08:00 ]

1960年、監督に昇格した金田正泰=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 金田正泰の監督就任が発表された1959(昭和34)年11月25日は給料日で、選手たちが甲子園球場一塁アルプススタンド横にあった合宿所「若竹荘」に来ていた。マネジャー・奥井成一は「あの人の下ではやりたくない」など早くも不満を漏らす選手の声を聞いた。週刊ベースボールに連載した『わが40年の告白』にある。3年前の「藤村監督排斥運動」首謀者に反感を抱く者が多く、不穏な船出となった。

 金田は後ろ盾になってもらおうと阪急監督を退いたばかりの藤本定義にコーチ就任を要請した。神戸・本山の自宅を訪ね「私を助けてください」と頭を下げた。

 巨人草創期をはじめ太陽、大映でも監督を務めたベテラン藤本にはすでに名将の貫禄があった。巨人出身者としてライバルの阪神入りに抵抗感のあった藤本は巨人初代監督・市岡忠男やセ・リーグ会長・鈴木龍二に相談のうえ、受諾した。鈴木は自ら「巨人・阪神戦が一層注目を浴びる」と阪神に推薦していた。

 金田1年目の60年は村山実が「2年目のジンクス」で8勝15敗と苦しむなど3位に終わった。

 藤本と球団社長(5月に代表から昇任)・戸沢一隆は<はた目もうらやむほどウマが合った>と奥井が記している。2年目61年のキャンプは高知市営球場で行った。甲子園球場を離れてのキャンプは53年(鹿児島・鴨池)以来。藤本の提案を戸沢が受けいれたのだが、金田は決定まで知らされていなかった。

 キャンプを迎えると、金田は藤本に「若手投手の強化」を理由に2軍をみてもらうよう頼み、遠ざけている。思うところがあったのだろう。

 4月1日付で球団商号が株式会社「大阪タイガース」から「阪神タイガース」となった。オーナー(電鉄本社社長)・野田誠三デザインの「T」と「H」を組み合わせた帽子のマークで臨んだシーズンだった。

 開幕から投打がかみ合わず、最下位に沈んだ。5月30日の中日戦(中日球場)から藤本が1軍ベンチに入った。そして6月6日朝、遠征先の東京・本郷の清水旅館で戸沢は金田に休養を通告。午前11時、東大球場での練習前、藤本の代理監督を全選手に伝えた。翌朝のスポニチ本紙には「球団側、予定の行動」と解説があり、記者・荒井忠は<金田さんは戸沢さんの支持を受けていないので、やがて藤本さんの手に権利がわたると見越していた>と書いた。

 金田は「この成績では十分ありうる、当然の処置だ」と話し、覚悟はできていた。「やっぱり厄年って、あるもんやな」7月で42歳だった。

 金田は苦労人だった。京都・寺田村(現城陽市)の寺田尋常小6年生だった35年、近所のグラウンド(後の寺田球場)で球拾いをしていた。日本統治下の朝鮮・慶尚北道で生まれ、家族で海峡を渡ってきた。当時の名前は竹村正次といった。

 「君は筋がいい」と練習中の平安中(現龍谷大平安高)監督の小笹清一が声をかけた。「高小2年行けば、スカウトしよう」と約束された。高等小学校を出ると、本当に学費・通学費免除の特待生で平安中に招かれた。

 後輩に球団専務・冨樫興一の長男・淳がいた関係で阪神監督だった松木謙治郎が41年秋、平安中で指導を行った。<とくに目についたのは竹村だった><もっとも元気で走り回っていた>と著書『タイガースの生いたち』(恒文社)にある。同年12月8日に日米開戦となる年で、夏の甲子園大会は中止、42年春、タイガースに入団した。

 戦時中の勤労動員で阪神電鉄の尼崎・浜田車庫に通い、アワの「黒い飯」を食べながら働いた。開花したのは戦後。主に俊足好打の1番としてプロ野球再開の46年に首位打者。51年の三塁打18本は今もプロ野球記録だ。

 57年限りで引退した後も2軍監督、1軍コーチと常にタイガースとともにあった。監督休養の日、「こうなった以上、タイガースと離れるしかない」と一人寂しく東京駅から帰っていった。

 金田に代わり指揮を執った藤本は球宴休みの7月21日、「代理」が外れ、正式に監督登録された。その後半戦は37勝27敗1分けで、藤本は「これが優勝ペースだ。この味を忘れるな」と選手たちに語りかけた。チームに自信とまとまりが芽生えていた。=敬称略=(編集委員)

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