【内田雅也の猛虎監督列伝~<10>第10代・田中義雄】「天覧」で感涙にむせんだ「カイザー」

[ 2020年4月29日 08:00 ]

「カイザー」田中義雄監督=阪神球団発行『タイガース30年史』より=。現役時代からメガネをかけていた。

 田中義雄はハワイ生まれの日系2世で「カイザー」と呼ばれた。ハワイ大時代、ドイツ支持の演説をしたことから付けられたニックネーム。ドイツ語で皇帝の意味だ。

 大学卒業後、エンドルーコックス高で数学、物理教員をしながら、日系人チーム・ハワイ朝日軍でプレーしていた。

 マッキンリー高時代にバッテリーを組んだ若林忠志に誘われ、1937(昭和12)年、30歳で来日、阪神入り。強肩、好リード、メガネをかけた捕手だった。また320匁(もんめ=約1200グラム)のバットで打ちつける打撃で巨人・沢村栄治キラーだった。

 戦争末期45年、英語も日本語もできるとして徴用された。米軍のラジオ短波放送や無線通信を傍受する任務で樺太、次いで北広島に派遣された。原爆投下もその日のうちに知っていたという。終戦を迎え、占領軍の軍属として札幌のホテルで支配人などを務めた。

 そんな田中に阪神から監督要請があったのは1957(昭和32)年シーズン終盤の10月、監督・藤村富美男が2位と奮闘していた時期だった。約1カ月後の11月24日、球団代表・戸沢一隆が藤村に現役復帰(つまりは監督解任)を告げ、翌25日に新監督を発表した。

 当時マネジャーの奥井成一は<この監督人事には戸沢代表は関与しておらず、本社社長である野田誠三オーナーが決めて球団に持ってきた>と明かしている。55年の岸一郎に次ぐ独断だった。

 田中1年目の58年は監督や一切の肩書きのない「平選手」となった藤村の最後のシーズンとなった。すでに43歳。出場は23試合、ほとんどが代打で安打はわずか3本。奥井が計算し「藤村さんはこれ以上凡打しますと通算3割を切ります」と田中に進言。以後、起用を控え、終身打率2割9分9厘9毛、四捨五入で3割を保っての引退となった。背番号10は球団初の永久欠番となった。

 引退試合は翌59年3月2日、巨人とのオープン戦(甲子園)。新人・村山実が初登板し、新旧交代を象徴していた。

 この59年はプロ野球史に刻まれる史上初の天覧試合が行われた。6月25日、後楽園球場に昭和天皇・皇后両陛下を迎えてのナイター、巨人―阪神戦だった。

 当日朝、東京・本郷の定宿、清水旅館で2度も風呂に入り身を清めた。選手たちに「この名誉ある試合を立派なものにしたい。全力を尽くそう」と話し、ベンチ入りすると「人生最高の喜び」と感激の涙をこぼした。

 日系人として生まれ、戦中は日米二重国籍から日本国籍を選んだ。

 山際淳司が『異邦人たちの天覧試合』=『逃げろ、ボクサー』(角川文庫)所収=に<カイザーは、たどたどしい日本語でいった>と書いている。「ほのるるノ、ボクガ育ッタ家ニハ、天皇陛下ノ写真ガ飾ッテアリマシタ。父ハ、ソノ人ガ神様ダトイイマシタ。ボクハ、ソレヲ信ジテイタンデスヨ。君ガ代ガ聞コエテクルト、ソレダケデ、体ガピーントシテシマウンデスヨ」

 試合は4―4同点の9回裏、先頭の長嶋茂雄に村山が内角シュートを左翼席上段に運ばれ、サヨナラ本塁打で敗れた。

 この2カ月後、同じ後楽園での試合前、田中はコーチの梶岡忠義、後藤次男、主将の白坂長栄を集め「私はもう疲れた。指揮をする気はなくなった。これからは合議制でやってくれ」と伝えた。辞任を口走る田中に、奥井は「そういうことは言わないでください」と何度もお願いをした。

 ペナントレースは巨人の独走だった。阪神は前年に続く2位だが、最後は13ゲーム差がついた。

 シーズン終盤の10月17日、英字紙ジャパン・タイムスに「田中退団」の記事が掲載された。田中は「藤村前監督がチームにいろいろ口出しして選手に働きかけている。こんな状態ではどんな監督もうまくやれない」「心ないマスコミ、心ないファンとともに、私には許せない」。奥井は<日本のマスコミに采配を痛烈に批判されてきた田中監督がしっぺ返しをしたのだ>とみていた。

 10月22日、シーズン最終戦を終えた甲子園で「心身ともに疲れた」と辞意を表明した。=敬称略=(編集委員)

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