【内田雅也の追球】甲子園大入り写真が示すプロ野球「風雪」の歴史

[ 2020年4月18日 08:30 ]

阪神球団「タイガース30年史」(1964年3月1日発行)の表紙
Photo By スポニチ

 調べものがあって阪神球団の『タイガース30年史』を書棚から引っ張りだして、感じ入ったことがある。表紙(実際は太いオビ)に観客で埋まった甲子園球場スタンドの写真がある。

 よく見ると、大人の男性ばかり並んでいる。女性も子どもも数えるほどだ。実際に数えてみた。

 写真にうつる136人のうち成人女性は7人、少年少女が5人。裏にも写真の続きがあり、158人中、成人女性9人、少年少女4人。合わせて294人中、成人女性は16人、少年少女は9人に過ぎない。実に約91・5%を成人男性が占めている。

 発行は1964(昭和39)年3月1日とある。おそらく前年1963(昭和38)年の甲子園球場スタンド風景だろう。当時の阪神戦は、いやプロ野球は大人の男が観るスポーツだった。

 東京五輪前年の高度成長期である。大人たちは懸命に働いた。リポビタンD発売が1962年でオロナミンCが1965年。1963年生まれの作家・重松清が<栄養ドリンク片手に、ニッポンはひたすら走りつづけた>と『娘に語るお父さんの歴史』(ちくまプリマー新書)に書いている。

 そして夜はナイターを観た。野球場やテレビ中継で、ひいきチームやスター選手に夢を託した。

 詩人サトウハチローは<疲れきった時(中略)ボクはいつでも 長嶋茂雄のことを思い浮かべる>と『長嶋茂雄選手を讃(たた)える詩』を寄せている。<長嶋茂雄はやっているのだ/長嶋茂雄はいつでもやっているのだ>グラウンドを駆け回る姿に奮起した。阪神ファンなら村山実や吉田義男、三宅秀史らに抱いた思いだろう。

 ただし、当時、この表紙写真のような満員はあまり見られなかった。1試合平均観衆は2リーグ制初優勝の62年で1万5424人、優勝を決めた甲子園での試合も観衆2万人だった。63年は平均1万31人と落ち込んでいる。

 当時を知る元球団社長・三好一彦がよく語っていた「長い年月、風雪に耐えてきた」という意味が分かる。人気球団の阪神でも昭和30年代までは毎年赤字経営だった。

 時代は移り、今では野球場に多くの女性、子どもの姿がある。球団の努力は実り、老若男女が集う場となった。

 昨年のプロ野球12球団の観客動員数は1試合平均で3万929人と、初めて3万人の大台を超えた。2年連続で大リーグ(平均2万8344人)を上回っている。日本野球機構(NPB)の職員が「ついにこんな時代が来た」と涙をこぼさんばかりに喜んだのを知っている。長年、大リーグと比較される悲哀を味わってきたからだ。

 新型コロナウイルス禍のいま、野球場に観客は1人もいない。国民的スターはいないが、夢膨らむ空間となった。プロ野球のない、この期間、苦難の歴史を知っておくのもいい。そして<プロ野球はやっているのだ>とかみしめたい。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

2020年4月18日のニュース