【内田雅也の追球】100年の時空を超えて――バンクーバー朝日軍、桐蔭高(旧制和歌山中)と再会へ

[ 2020年1月23日 06:00 ]

桐蔭高を訪れた日本・カナダ商工会議所会長のサミー高橋さん(左)とバンクーバー朝日軍の子孫・嶋洋文さん。右は1927年、バンクーバーを訪れた和歌山中が現地和歌山県人会から受け取ったカップ(1月22日、桐蔭高同窓会館)
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 戦前、カナダで活躍したバンクーバー朝日軍が1921(大正10)年に来日してから100周年を迎える来年、前回対戦した和歌山中(和中=現桐蔭高)と交流する計画が持ち上がった。日本カナダ商工会議所会長のサミー高橋さん(68)と同軍選手の子孫、嶋洋文さん(72)が22日、和歌山市の同高を訪れ、協力を要請、快諾を得た。

 和歌山県出身の移住者などカナダの日系人で組織されたバンクーバー朝日軍は1921年9月に来日し、慶大や同大を破るなど、11月まで各地で試合を行い、日本チーム相手に12勝8敗1分けの成績を残した。

 <注目すべきは旧制和歌山中学(現在の和歌山県立桐蔭高校)との対戦である>とテッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日軍』(東峰書房)にある。同年夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で優勝した和中とは9月27日、同中校庭で対戦、5―3で和中が勝利している。和中は3番遊撃の井口新次郎(後に早大=野球殿堂入り)、4番投手の北島好次(後に大阪大)ら強打のチーム。雑誌『球界』に<朝日軍の守備はともかく、打力はさっぱり>との論評が載った。

 1941(昭和16)年の日米開戦で自然消滅した朝日軍だが、2014年の映画『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)公開を契機に機運が高まり、「バンクーバー新朝日」として再結成された。現在は少年を中心に約180人の部員がいる。2015、17、19年とすでに3度来日しているが、高橋さんは「来年はぜひ、桐蔭高と100年越しの再会を果たしたい」と話した。

 計画では12―15歳の選手15人が来年3月上旬に来日。20日に桐蔭高を訪問する。横浜や奈良・天理でも交流を予定している。
 申し入れに桐蔭高の木皮享校長(59)は「国際交流として意義深い」と協力を約束した。新島壮・和中桐蔭野球部OB会長(70)は「先輩方が築いた伝統と日系人の方々の情熱を感じる大切な行事になる」と話した。

 1921年も試合後、教室で朝日軍選手を前に和中野球部員と部長が英語でスピーチを行い、当時の選手の「われわれに深い印象を与えた」と回顧談が残っている。今回も歓迎会や選手の桐蔭高部員宅へのホームステイなどを検討している。

 今回の届出に日本高校野球連盟(高野連)は交流を許可したうえ「相手は中学生の年代で、高校生とは体力差があり、試合は控えた方がいい。安全面に十分配慮すべきだ」と指導、助言があった。試合ではなく、合同練習や野球教室など方法は今後話し合う。

 戦前、全国屈指の強豪校だった和中は1927(昭和2)年、選抜大会で全国優勝し、主催の大阪毎日新聞(大毎)から北米旅行を贈られた。戦前、北米では日系人の排斥運動が高まっていた。優勝校の北米派遣についての大毎趣意書には<日米間の諸問題>で<日米の若人がスポーツによって一脈の諒解(りょうかい)を得る>と親善の意味合いが強かった。

 北米旅行中、カナダ・バンクーバーに立ち寄った7月19日には朝日軍選手とも対面。現地の和歌山県人会から60センチ以上ある巨大な記念カップが授与された。

 カップは今も桐蔭高に残る。祖父母が和歌山・新宮出身、伯父が朝日軍初代メンバーだった嶋さんは朝日軍について調査・研究を続け、当時の交流も文献で知る。色あせたカップを初めて目の当たりにし「何とも素晴らしい」と、時空を超えた交流に感激していた。(編集委員)

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