内田雅也が行く 猛虎の地(6)新事実!鳴尾球場の位置は今の女子校 記念碑の場所ではなかった

[ 2019年12月6日 08:00 ]

浜甲子園運動公園に建つ「鳴尾球場跡地」の記念碑
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 【(6)鳴尾球場】

 
 甲子園球場から南に約1・4キロ、浜甲子園運動公園入り口に「鳴尾球場跡地」の記念碑がある。1993年8月6日、夏の全国高校野球選手権大会を主催する朝日新聞社、日本高校野球連盟と地元・西宮市が「鳴尾球場を永久に銘記するため、その跡地に石碑を建設した」と銘板にある。

 この跡地とされる場所がどうも間違っている――と武庫川女子大教授・情報教育研究センター長の丸山健夫(64)が鳴尾球場の正確なホームベースの位置を探り当てた。そこは同大付属中学・高校(西宮市枝川町)の校内にあるテニスコート付近。記念碑から直線で約500メートル離れていた。丸山によると、記念碑の建つ場所はグラウンドから大きく外れ、後にできる浜甲子園阪神パークの園内と推測できる。

 どうやって本塁位置を特定したのか。その前に歴史を振り返りたい。

 鳴尾球場は1917(大正6)年から23年まで全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園大会)の開催球場だった。

 大会は15年、阪急沿線・豊中グラウンドで第1回大会を開催した。だが会期が長期化すれば参加費用がかかるため会場の複数化を検討。鳴尾競馬場を所有する阪神電鉄が同場内に野球場を2面設けることで誘致した。

 鳴尾競馬場は関西初の競馬場として1907(明治40)年完成。当初は鳴尾西浜競馬場と鳴尾速歩(はやあし)競馬場(10年に廃止)の2場があった。約41・7万平方メートルと広大な敷地に競馬トラック(1周1845メートル)、内側に陸上トラック(1周800メートル)、プール、テニス場があった。14年には日本初の民間飛行大会も開かれた。

 この内部に第1、第2と2面の野球場を設けた。鳴尾球場で初開催となった17年の第3回大会は敗者復活戦も行い、15試合を7日間で消化した。

 大林組建設の常設スタンドは当初は木造で、35年に鉄筋コンクリート6階建てに改装した。スタンドは1万8300人収容。正面玄関から入る「一号馬見所」(一等席)は館内に貴賓室、エレベーター、水洗トイレを備えていた。

 この一等席の建物が場所特定のカギとなった。42年に大阪市が撮影した航空写真に本塁を含めた鳴尾球場跡が写っていた。トラック距離などから縮尺を計算すると、メインの第1グラウンドの本塁は一等席建物から南へ185メートルだと分かった。

 建物は今も武庫川女子大付中・高の「芸術館」として残っていた。

 戦時中、近くの川西航空機(現・新明和工業)が戦闘機を製造。競馬場はテスト用の飛行場となった。43年、海軍へ譲渡となり、二等席は取り壊されたが6階建て一等席は管制塔に使われた。
 戦後は進駐軍が接収しキャンプ宿舎が建ち並んだが、塔の建物は健在。60年に武庫川女子大が払い下げを受けた。2005年の復元工事で誕生時の姿に近づけた。

 同校は「芸術館」と名づけ、一部は音楽、美術や書道の授業で使われている。鳴尾球場第1グラウンドの本塁付近は運動場南側のテニスコートの端。さらに南門から校外に出た浜甲子園団地中央広場の一角に今年春、「鳴尾競馬場跡記念碑」が建てられた。3月に解散した鳴尾文化協会が残余金などで造り、西宮市に寄贈した。この碑の場所は本塁から80メートルほど、鳴尾球場で言えばセンターの辺りとなる。

 同碑建設にも助言するなど地元史研究を続ける丸山は「正確な位置を確定できたのは一定の成果」と話した。「この地は昔からヒコーキ野郎、競馬の騎手、戦闘機のパイロット、高校(中等)球児、今は女学生たち……と青春の血潮がほとばしる場所としてある」

 鳴尾球場は大観衆であふれ、阪神電鉄は甲子園球場建設を決断する。そして甲子園を持ったから阪神球団が生まれた。ここもまた猛虎のふる里だった。=敬称略=(編集委員)

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