内田雅也が行く 猛虎の地<19>米ブリストル市「ディボルト記念球場」

[ 2018年12月22日 09:00 ]

「1位」の重圧と闘った森の球場

神戸・三宮で焼酎バーを経営していた安達智次郎さん(2014年1月撮影)
Photo By スポニチ

 アパラチア山脈の中ほどにあるブリストル市は「トライ・シティ」と呼ばれている。トライアングルのトライで「3」の意味だ。バージニア州の郡とテネシー州の市と郡の3地域にまたがる。人口4万2000人ほどの小さな都市だった。

 1994年夏、安達智次郎はこの地にあるマイナー球団(ルーキー級)、ブリストル・タイガースに野球留学していた。6月4日から8月30日までの約3カ月の武者修行だった。7月末、取材で訪ねたのを思い出す。

 「こちらの力ある打者に対して力で押す投球を心がけています。変化球を投げればいくらでも抑えられますけど」と安達は言った。村野工高からドラフト1位で入団して2年目。少年時代から速球でねじ伏せる投球へのあこがれが強かった。

 ただ、苦悩していた時期でもある。松井秀喜の「外れ1位」として期待されながら、1軍登板はなく、2軍戦でも苦しんでいた。重圧もあったろう。後に聞いたところだと、制球力不足を指摘され、フォーム修正で球が走らずに悩んでいた。

 ただ、本拠地ディボルト記念球場は気持ち良かった。緑の木々に囲まれ、内野にも芝生席があった。日が沈むころになると、地元の人びとが集まる。大リーグを目指す選手の戦場ではあるが、ほのぼのとした空気に満ちていた。その楽しい光景は米写真集『ベースボール・イン・アメリカ』が採用したほどだ。83年からGMを務めるボイス・コックスが夫人とともに入場券販売や場内放送も担当していた。

 球場近くのアパートに同じく留学選手の捕手・塩谷和彦と暮らした。日本食が恋しく、夜中に持ち込んだカップ麺をすすった。金も持たず、腹を空かせた同僚選手がほしがり、分けてやった。

 たやすくハングリー精神などと呼ぶつもりはない。ただ、安達は96年にも3カ月間、フロリダに派遣された。マイナーの悲哀と闘志は肌で知る。

 98年に外野手転向となり、投手失格に「死にたいとまで思った」。監督に就いた野村克也から「サイドで投げてみろ」と言われ「これで投手として現役を終えられる」と99年限りで引退した。

 引退後3年間、打撃投手を務め、03年から神戸・三宮で焼酎バー「ロケット・ボール」を開いた。店名は村野工高部長(後に監督)、田中英樹が「ロケットのような球を投げろ」と励ましてくれた言葉による。

 「夢は今でもプロ野球選手なんです。僕は1軍での登板がなかった。だから今も追いかけている」。指導者として子どもたちに夢を託していた。

 2015年に肝臓を患い入退院を繰り返した。16年1月7日、肝不全で41歳の若さで帰らぬ人となった。年末まで店に出ていたという。通夜で会った阪神関係者が「彼は最後まで夢を追っていた」とはかなんだ。

 あの夏、森に囲まれた球場で聞いた速球へのあこがれがよみがえった。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

2018年12月22日のニュース