内田雅也が行く 猛虎の地<18>京都・城陽市「寺田球場」

[ 2018年12月21日 12:57 ]

球拾い少年の才能を発掘

水度神社二の鳥居と松並木の参道。この右手に寺田球場はあり、タイガースの選手たちは坂道を上って通った
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 平安中(現龍谷大平安高)監督は毎日、グラウンドに練習を見に来て、球拾いをする少年にグラブをプレゼントし、声をかけた。

 「君は筋がいいから高等2年まで行け。そしたらオレが平安にスカウトしてやるから」

 監督は小笹清一。平安中OBで立命館大でも強打者でならした。

 少年は名を竹村正次といった。後の金田正泰である。

 小笹が台湾・花蓮港中で監督をしていた当時の教え子、岩本力(92=大阪市)から聞いた金田発掘の逸話である。

 1935(昭和10)年ごろの話かと思われる。

 このグラウンドというのが後の寺田球場だ。奈良電鉄(63年、近鉄と合併)が沿線開発の一環として同年9月15日に開場した。両翼90メートル、中堅120メートル。スコアボードやコンクリート製のスタンドもあり、1万人を収容できた。隣にラグビー場があり、食堂や更衣室も完備していた。

 開場前から平安中は練習場として使っていたのだろう。小笹も寺田村で暮らし、兄とグラウンドの管理をしていた。

 金田(当時竹村)少年は京都・寺田村(現城陽市)の寺田尋常小学校6年生。教え通り高等小学校に進み、36年春、平安中に学費・通学費免除の特待生で入学した。春4回、夏1回、甲子園に出場している。5年時には主将を務めた。

 松木謙治郎は兼任監督だった41年秋、1週間ほど平安中をコーチした。球団専務・富樫興一の長男・泰が選手にいて、依頼を受けた。<とくに目についたのは竹村だった><とにかく厳しく鍛えてほしいという注文だけに連日猛特訓をつづけた。もっとも元気で走り回っていたのが竹村だった>と著書『タイガースの生いたち』(恒文社)に記している。この場所も寺田球場だったろうか。

 当時、金田(竹村)は最高学年5年で主将。12月8日に太平洋戦争に突入する年で、全国中等学校優勝野球大会は中止となった。甲子園の道を断たれ、プロに夢を抱いていたころだろう。

 42年、平安中を卒業した金田は阪神に入団する。開花したのは戦後。主に1番打者としてプロ野球再開の46年に首位打者。51年の三塁打18本は今もプロ野球記録だ。

 56年には故郷・寺田が野球大会を創設することになり、青年団に優勝カップ「金田杯」を贈った。引退後、2軍監督、1軍コーチを務め、60年、監督に昇格した。同年2月、寺田で開かれた激励祝賀会には小学校時代の恩師も訪れた。

 寺田球場は43年10月で閉鎖となり、跡地には軍需工場が建った。現在の城陽中あたり。近くに水度(みと)神社があり、参道の松並木は「京都の自然200選」に選ばれたほど。ただ、球場をしのばせる風景には出会えなかった。=敬称略=(編集委員)

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